| 2026/01/27 19:35 |
[PR] |
| 2009/06/24 17:40 |
外務省ホームページより。 |
ここもおもしろい、上にわかり易い。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol32/index.html
わかる!国際情勢
アフガニスタンでは現在、急速に治安情勢が不安定化しています。これに対し、日本をはじめとする国際社会は、治安改善や復興開発など様々な分野でアフガニスタンへの支援を強化しています。なぜアフガニスタンが「テロの温床」と言われるようになったのか、そして、なぜ国際社会がアフガニスタン支援に取り組んでいるのか、アフガニスタンの歴史、特に2001年から今までの動きをもとに考えます。
■「文明の十字路」と呼ばれたアフガニスタン
アフガニスタンは中央アジアに位置し、かつてユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶ「文明の十字路」と呼ばれた平和な地域でした。歴史的には、ペルシア、インド、トルコなど影響力のある文明に囲まれ、現在でも国内にはパシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人など様々な民族が住んでいます。昔から農業が盛んで、小麦や米のほかに、サフラン、ザクロ、レーズンなどを生産してきました。アフガニスタン
■国家の歩み~王朝成立からソ連の軍事介入
長い間続いた他民族支配の後、1747年にドゥラーニー王朝が成立し、アフガニスタンは国として歩みはじめます。1880年にイギリスの保護領となりますが、アフガニスタンはインドほど経済的価値が高くはなかったため、不凍港を求めて南下するロシアとインドを支配するイギリスとの緩衝地帯となりました。 1919年にはイギリスからの独立を達成しますが、平和な時代はあまり長続きせず、73年に王制が崩壊して共和制に移行、78年には軍事クーデターで人民民主党政権が成立。翌年、ソ連の軍事介入をきっかけに、アフガニスタン情勢は不安定さを増していきます。
■ ソ連への抵抗とタリバーン勢力の台頭
ソ連の侵攻に対抗する人々はイスラムの旗の下に結束し、各地でゲリラ戦を展開しました。1989年にはソ連軍を撤退に追い込みますが、国内は各ゲリラ勢力の主導権争いにより内戦状態に陥ってしまいます。そこに現れたのが、イスラムへの回帰を訴える「タリバーン」でした。タリバーンは、アフガニスタンとパキスタン国境付近に住むパシュトゥーン人を中心に台頭してきた勢力で、厳しいイスラムの戒律により、社会秩序を急速に回復させました。生活の安定を取り戻した人々によって支持されたタリバーンは、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年頃までには国土の9割を支配するようになりました。
■タリバーンと国際テロ組織「アル・カーイダ」
タリバーン支配によって社会秩序が回復する一方で、女性の就学を禁じたり、映画、テレビ、音楽などの娯楽を禁止したりするなど、極端なイスラム原理主義が人々の暮らしを抑圧するようになります。一方、タリバーンは、国際テロ組織「アル・カーイダ」を受け入れ、アフガニスタンにおける活動の自由を許すようになりました。
■9.11以降のアフガニスタン
タリバーン政権の保護のもと、アル・カーイダはアフガニスタンを拠点に活動を活発化。2001年9月11日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルなどで約3000人が犠牲となる同時多発テロを起こしました。翌10月、米国などの連合軍はアフガニスタンに対し武力を行使し、タリバーン政権は崩壊。アフガニスタン各勢力の代表は、国連の呼びかけで和平プロセスに合意(ボン合意)し、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)を中心とする新たな国造りがはじまりました。
■深刻な治安の不安定化
アフガニスタンでは近年、治安情勢が著しく不安定化しています。首都カブールを追われたタリバーンや反政府勢力によるテロが激化し、特にパキスタンとの国境付近では深刻な状況となっています。2008年の民間人死者数は、米国同時多発テロ事件(9.11)が発生した2001年以降で最悪の2,118人(前年比約40%増)にのぼり、外国兵の死者数も2001年以降最悪です。
■アフガニスタン支援は「世界共通の課題」
このように、アフガニスタンがテロの温床になってしまった歴史をふまえ、日本をはじめとする国際社会は、積極的にアフガニスタンを支援してきました。それはアフガニスタンの不安定化は、テロの拡散という一国あるいは中東・中央アジア地域だけの問題ではなく、世界全体の問題として考えなければならない問題を生むからです(テロとの闘い)。 9.11以降もバリ島(2002年10月)、ロンドン(2005年7月)、インド・ムンバイ(2008年11月)など世界中でテロ事件は発生しており、私たちの生活を脅かしています。国際社会は、アル・カーイダ等の掃討を行う「不朽の自由作戦」(OEF)や、「国際治安支援部隊」(ISAF)などによる治安面での支援活動に加え、人道・復興支援を実施してきています。
■アフガニスタン復興に向けた日本の支援
日本も、人道復興支援とテロ治安対策を「車の両輪」として、アフガニスタンの安定に向けて積極的に取り組んできました。アフガニスタン復興支援国際会議(2002年~)では、総額20億ドル(米英に続き世界第3位の規模)の支援を約束。うち15億ドル以上が人道支援、民主化支援、治安状況改善、人材育成、経済基盤整備などの分野ですでに実施されています。インド洋では引き続き、テロリストの海上移動を阻止する活動を行っている各国船艦に、補給支援活動を実施しています。日本のアフガニスタン支援の実績
■現地で活動する日本人
ジャララバードで稲作指導を行うJICA専門家アフガニスタンでは、100人を超える日本人(日本大使館、国際協力機構(JICA)、NGOなど)が、農業開発などの各分野で支援活動を行っています。その中で、2008年8月には、NGOの伊藤和也氏が誘拐・殺害されるという許しがたい事件も起こりました。アフガニスタンの人々は、歴史的に従属関係のない日本に好感を抱いており、現地で懸命に活動している日本人の姿は好意的に受け止められています。
■地方支援の強化~チャングチャランPRTへの文民派遣
アフガニスタンでは、治安が不安定なために人道復興支援活動にも支障が生じている地域がたくさんあります。このため、各国軍隊と文民による地方復興チーム(PRT)が各地で支援活動を展開しています。日本は2007年から外国が主導する8つのPRTと連携し、NGOや地方行政機関への無償資金協力を実施してきました。2009年春以降には、リトアニア政府の協力要請に応じる形で、チャングチャランPRT(ゴール県)に日本人の文民を初めて派遣し、復興のための地域のニーズをきめ細かく調査する活動などを行っていきます。日本はこれまでの国際協力において、開発のために現地が必要とする支援を的確に把握する能力を培っており、この力に期待が高まっています。日本が連携しているPRTの展開状況
■アフガニスタン人による国造りに向けて
国際社会はアフガニスタンで、これまでに500万人を超える難民の帰還、年平均約10%のGDP成長率(2003~06年)、初等教育就学率の増加、予防接種の普及、幹線道路の整備など、着実な支援を続けてきました。アフガニスタン政府も、麻薬撲滅や非合法武装集団の解体など、自国が取り組むべき課題をアフガニスタン・コンパクトとして表明しています。日本は、支援の効果や治安状況などを見極めたうえで、今後もアフガニスタンの自立に向けた取組を行っていきます。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol32/index.html
わかる!国際情勢
アフガニスタンでは現在、急速に治安情勢が不安定化しています。これに対し、日本をはじめとする国際社会は、治安改善や復興開発など様々な分野でアフガニスタンへの支援を強化しています。なぜアフガニスタンが「テロの温床」と言われるようになったのか、そして、なぜ国際社会がアフガニスタン支援に取り組んでいるのか、アフガニスタンの歴史、特に2001年から今までの動きをもとに考えます。
■「文明の十字路」と呼ばれたアフガニスタン
アフガニスタンは中央アジアに位置し、かつてユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶ「文明の十字路」と呼ばれた平和な地域でした。歴史的には、ペルシア、インド、トルコなど影響力のある文明に囲まれ、現在でも国内にはパシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人など様々な民族が住んでいます。昔から農業が盛んで、小麦や米のほかに、サフラン、ザクロ、レーズンなどを生産してきました。アフガニスタン
■国家の歩み~王朝成立からソ連の軍事介入
長い間続いた他民族支配の後、1747年にドゥラーニー王朝が成立し、アフガニスタンは国として歩みはじめます。1880年にイギリスの保護領となりますが、アフガニスタンはインドほど経済的価値が高くはなかったため、不凍港を求めて南下するロシアとインドを支配するイギリスとの緩衝地帯となりました。 1919年にはイギリスからの独立を達成しますが、平和な時代はあまり長続きせず、73年に王制が崩壊して共和制に移行、78年には軍事クーデターで人民民主党政権が成立。翌年、ソ連の軍事介入をきっかけに、アフガニスタン情勢は不安定さを増していきます。
■ ソ連への抵抗とタリバーン勢力の台頭
ソ連の侵攻に対抗する人々はイスラムの旗の下に結束し、各地でゲリラ戦を展開しました。1989年にはソ連軍を撤退に追い込みますが、国内は各ゲリラ勢力の主導権争いにより内戦状態に陥ってしまいます。そこに現れたのが、イスラムへの回帰を訴える「タリバーン」でした。タリバーンは、アフガニスタンとパキスタン国境付近に住むパシュトゥーン人を中心に台頭してきた勢力で、厳しいイスラムの戒律により、社会秩序を急速に回復させました。生活の安定を取り戻した人々によって支持されたタリバーンは、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年頃までには国土の9割を支配するようになりました。
■タリバーンと国際テロ組織「アル・カーイダ」
タリバーン支配によって社会秩序が回復する一方で、女性の就学を禁じたり、映画、テレビ、音楽などの娯楽を禁止したりするなど、極端なイスラム原理主義が人々の暮らしを抑圧するようになります。一方、タリバーンは、国際テロ組織「アル・カーイダ」を受け入れ、アフガニスタンにおける活動の自由を許すようになりました。
■9.11以降のアフガニスタン
タリバーン政権の保護のもと、アル・カーイダはアフガニスタンを拠点に活動を活発化。2001年9月11日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルなどで約3000人が犠牲となる同時多発テロを起こしました。翌10月、米国などの連合軍はアフガニスタンに対し武力を行使し、タリバーン政権は崩壊。アフガニスタン各勢力の代表は、国連の呼びかけで和平プロセスに合意(ボン合意)し、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)を中心とする新たな国造りがはじまりました。
■深刻な治安の不安定化
アフガニスタンでは近年、治安情勢が著しく不安定化しています。首都カブールを追われたタリバーンや反政府勢力によるテロが激化し、特にパキスタンとの国境付近では深刻な状況となっています。2008年の民間人死者数は、米国同時多発テロ事件(9.11)が発生した2001年以降で最悪の2,118人(前年比約40%増)にのぼり、外国兵の死者数も2001年以降最悪です。
■アフガニスタン支援は「世界共通の課題」
このように、アフガニスタンがテロの温床になってしまった歴史をふまえ、日本をはじめとする国際社会は、積極的にアフガニスタンを支援してきました。それはアフガニスタンの不安定化は、テロの拡散という一国あるいは中東・中央アジア地域だけの問題ではなく、世界全体の問題として考えなければならない問題を生むからです(テロとの闘い)。 9.11以降もバリ島(2002年10月)、ロンドン(2005年7月)、インド・ムンバイ(2008年11月)など世界中でテロ事件は発生しており、私たちの生活を脅かしています。国際社会は、アル・カーイダ等の掃討を行う「不朽の自由作戦」(OEF)や、「国際治安支援部隊」(ISAF)などによる治安面での支援活動に加え、人道・復興支援を実施してきています。
■アフガニスタン復興に向けた日本の支援
日本も、人道復興支援とテロ治安対策を「車の両輪」として、アフガニスタンの安定に向けて積極的に取り組んできました。アフガニスタン復興支援国際会議(2002年~)では、総額20億ドル(米英に続き世界第3位の規模)の支援を約束。うち15億ドル以上が人道支援、民主化支援、治安状況改善、人材育成、経済基盤整備などの分野ですでに実施されています。インド洋では引き続き、テロリストの海上移動を阻止する活動を行っている各国船艦に、補給支援活動を実施しています。日本のアフガニスタン支援の実績
■現地で活動する日本人
ジャララバードで稲作指導を行うJICA専門家アフガニスタンでは、100人を超える日本人(日本大使館、国際協力機構(JICA)、NGOなど)が、農業開発などの各分野で支援活動を行っています。その中で、2008年8月には、NGOの伊藤和也氏が誘拐・殺害されるという許しがたい事件も起こりました。アフガニスタンの人々は、歴史的に従属関係のない日本に好感を抱いており、現地で懸命に活動している日本人の姿は好意的に受け止められています。
■地方支援の強化~チャングチャランPRTへの文民派遣
アフガニスタンでは、治安が不安定なために人道復興支援活動にも支障が生じている地域がたくさんあります。このため、各国軍隊と文民による地方復興チーム(PRT)が各地で支援活動を展開しています。日本は2007年から外国が主導する8つのPRTと連携し、NGOや地方行政機関への無償資金協力を実施してきました。2009年春以降には、リトアニア政府の協力要請に応じる形で、チャングチャランPRT(ゴール県)に日本人の文民を初めて派遣し、復興のための地域のニーズをきめ細かく調査する活動などを行っていきます。日本はこれまでの国際協力において、開発のために現地が必要とする支援を的確に把握する能力を培っており、この力に期待が高まっています。日本が連携しているPRTの展開状況
■アフガニスタン人による国造りに向けて
国際社会はアフガニスタンで、これまでに500万人を超える難民の帰還、年平均約10%のGDP成長率(2003~06年)、初等教育就学率の増加、予防接種の普及、幹線道路の整備など、着実な支援を続けてきました。アフガニスタン政府も、麻薬撲滅や非合法武装集団の解体など、自国が取り組むべき課題をアフガニスタン・コンパクトとして表明しています。日本は、支援の効果や治安状況などを見極めたうえで、今後もアフガニスタンの自立に向けた取組を行っていきます。
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| 2009/06/24 17:04 |
駐シリア大使復帰へ=米大統領が週内にも発表-CNN |
6月24日12時36分配信 時事通信
【ワシントン23日時事】CNNテレビは23日、米政府高官の話として、オバマ大統領が駐シリア大使の復帰を決めたと伝えた。週内に発表される見込みという。米国は2005年のハリリ元レバノン首相暗殺事件を受け、駐シリア大使を召還した。
米国は、テロ支援国に指定するシリアを敵視してきた。しかし、オバマ大統領はシリアとの関係改善を目指しており、大使復帰は両国関係の大きな転機となりそうだ。
【ワシントン23日時事】CNNテレビは23日、米政府高官の話として、オバマ大統領が駐シリア大使の復帰を決めたと伝えた。週内に発表される見込みという。米国は2005年のハリリ元レバノン首相暗殺事件を受け、駐シリア大使を召還した。
米国は、テロ支援国に指定するシリアを敵視してきた。しかし、オバマ大統領はシリアとの関係改善を目指しており、大使復帰は両国関係の大きな転機となりそうだ。
| 2009/06/24 17:03 |
ハマスの「大物」を釈放 |
6月23日23時9分配信 毎日新聞
【エルサレム前田英司】イスラエルは23日、刑務所に約3年間収監されていたイスラム原理主義組織ハマスのメンバーで、パレスチナ評議会(国会に相当)議長のアジズ・ドゥエイク氏を釈放した。
イスラエルは06年6月下旬に兵士1人がパレスチナ自治区ガザの武装勢力に拉致された後、ハマス所属の評議会議員を大量に拘束。ドゥエイク氏はその中で最も「大物」の一人だった。
イスラエルにとって同氏は、拉致された兵士の解放交渉の「カード」とみられていた。だが、ハマス側は同氏釈放と解放交渉の関連を否定している。
【エルサレム前田英司】イスラエルは23日、刑務所に約3年間収監されていたイスラム原理主義組織ハマスのメンバーで、パレスチナ評議会(国会に相当)議長のアジズ・ドゥエイク氏を釈放した。
イスラエルは06年6月下旬に兵士1人がパレスチナ自治区ガザの武装勢力に拉致された後、ハマス所属の評議会議員を大量に拘束。ドゥエイク氏はその中で最も「大物」の一人だった。
イスラエルにとって同氏は、拉致された兵士の解放交渉の「カード」とみられていた。だが、ハマス側は同氏釈放と解放交渉の関連を否定している。
| 2009/06/23 12:52 |
日本政府と国交のない国 |
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/kokkou.html#04
ここはおもしろい。パレスチナだけではなく、諸々の状況から、日本と国交を結べていない国から国交はあるけど、承認する政府が存在しない国、などを
その明確な理由を述べながら解説してある。
組織は認めているが、国家として認めていないので国交がない国、パレスチナ。
存在は認めているが、国家を認めていないので国交がない国 北朝鮮。
存在自体を認めていないので、国交がない国 台湾(中華民国)。
国交はあるけど、承認する政府が存在しない国ソマリア。
などなど、文体は事実にのっとって書かれているにもかかわらず、
国々の正常ではない状況に対する指摘がユーモラスで
妙に笑えてしまう。(いや笑っちゃいけない状態なんだけどさ。
世界飛び地領土研究会というサイトの中のコンテンツの一つらしい。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html
非常におもしろい研究だ。
ここはおもしろい。パレスチナだけではなく、諸々の状況から、日本と国交を結べていない国から国交はあるけど、承認する政府が存在しない国、などを
その明確な理由を述べながら解説してある。
組織は認めているが、国家として認めていないので国交がない国、パレスチナ。
存在は認めているが、国家を認めていないので国交がない国 北朝鮮。
存在自体を認めていないので、国交がない国 台湾(中華民国)。
国交はあるけど、承認する政府が存在しない国ソマリア。
などなど、文体は事実にのっとって書かれているにもかかわらず、
国々の正常ではない状況に対する指摘がユーモラスで
妙に笑えてしまう。(いや笑っちゃいけない状態なんだけどさ。
世界飛び地領土研究会というサイトの中のコンテンツの一つらしい。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html
非常におもしろい研究だ。
| 2009/06/23 12:12 |
パレスチナ自治区 |
パレスチナ暫定自治政府(パレスチナざんていじちせいふ、アラビア語: السلطة الوطنية الفلسطينية、Palestinian Interim Self-Government Authority, "PA")は、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区を管理するパレスチナ人による自治機関である。パレスチナ自治政府はパレスチナ解放機構とイスラエルによるオスロ合意の結果、1994年に設立された。自治政府はパレスチナの都市区域(エリアA)と辺境区域(エリアB)の両区域に対する文民統制を行う。現在は西岸とガザに分裂している。
オスロ合意はパレスチナ自治政府の将来に対して明示を行わなかった。しかしながら最終的にはパレスチナ国家の基礎となることがイスラエルとアラブの両陣営から不文律として認識されている。
発足当初はPLOの主流派で、アラファト率いる対イスラエル穏健派ファタハが立法評議会選挙で圧倒的多数の議席を確保して政権を運営していたが、縁故採用や汚職が相次いだことで徐々に支持を失い、2006年に実施した2回目の総選挙では強硬派のハマースが第1党となった。
アラファトの死後大統領に就任したファタハ議長のマフムード・アッバースとハマースの内閣はたびたび対立し、2006年にガザ地区でファタハとハマースの武装組織が衝突し、ハマースはガザ地区を武力制圧した。アッバースはハニヤを首相職から解任したが、ハニヤは拒否し、ハマース率いるガザ地区とファタハ率いるヨルダン川西岸地区が分裂状態となっている。
イスラエルを含む国際社会は西岸地区のPAを正当政府として承認し、ガザ地区のPAはイランやシリア、スーダンと言った反米国家のみが承認している。
オスロ合意はパレスチナ自治政府の将来に対して明示を行わなかった。しかしながら最終的にはパレスチナ国家の基礎となることがイスラエルとアラブの両陣営から不文律として認識されている。
発足当初はPLOの主流派で、アラファト率いる対イスラエル穏健派ファタハが立法評議会選挙で圧倒的多数の議席を確保して政権を運営していたが、縁故採用や汚職が相次いだことで徐々に支持を失い、2006年に実施した2回目の総選挙では強硬派のハマースが第1党となった。
アラファトの死後大統領に就任したファタハ議長のマフムード・アッバースとハマースの内閣はたびたび対立し、2006年にガザ地区でファタハとハマースの武装組織が衝突し、ハマースはガザ地区を武力制圧した。アッバースはハニヤを首相職から解任したが、ハニヤは拒否し、ハマース率いるガザ地区とファタハ率いるヨルダン川西岸地区が分裂状態となっている。
イスラエルを含む国際社会は西岸地区のPAを正当政府として承認し、ガザ地区のPAはイランやシリア、スーダンと言った反米国家のみが承認している。