| 2026/04/10 23:12 |
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| 2009/06/01 16:30 |
中東戦争終結の理由 |
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独で平和条約に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。サダトはノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、アラブ主義者によって射殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラクにより現在まで継続されている。
第二に、1979年にイランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦やアメリカ合衆国なども同じであった。1981年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。
こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。
イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている[1]。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。
1980年代後半になると、イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した(第1次インティファーダ)。
イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。
第二に、1979年にイランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦やアメリカ合衆国なども同じであった。1981年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。
こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。
イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている[1]。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。
1980年代後半になると、イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した(第1次インティファーダ)。
イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。
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| 2009/06/01 16:30 |
アラブの連合 |
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はイスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。
連合した国と期間
エジプト・シリア - アラブ連合共和国 1958年~1961年(シリア離脱)
イラク・ヨルダン - アラブ連邦 1958年5月~8月(7月にイラクが共和革命したため)
イラク・シリア - イラク・シリア連邦 1962年(両国ともクーデター政権のため政情不安定)
エジプト・シリア・リビア - アラブ共和国連邦 1971年~1973年(緩やかな連邦制、エジプトは73年に更なる合一を目指したが、リビアのカダフィが反対した)
イラク・シリア - 統合憲章に調印 1979年
シリア・リビア - 単一国家樹立を宣言 1980年
連合した国と期間
エジプト・シリア - アラブ連合共和国 1958年~1961年(シリア離脱)
イラク・ヨルダン - アラブ連邦 1958年5月~8月(7月にイラクが共和革命したため)
イラク・シリア - イラク・シリア連邦 1962年(両国ともクーデター政権のため政情不安定)
エジプト・シリア・リビア - アラブ共和国連邦 1971年~1973年(緩やかな連邦制、エジプトは73年に更なる合一を目指したが、リビアのカダフィが反対した)
イラク・シリア - 統合憲章に調印 1979年
シリア・リビア - 単一国家樹立を宣言 1980年
| 2009/06/01 16:29 |
第四次中東戦争 |
1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北をまねいた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。
10月11日より、イスラエル軍による反撃が開始され、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
10月に勃発したので十月戦争、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キプール戦争とも呼ばれる。緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、後のキャンプ・デービット合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びつく。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルを援助する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。
10月11日より、イスラエル軍による反撃が開始され、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
10月に勃発したので十月戦争、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キプール戦争とも呼ばれる。緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、後のキャンプ・デービット合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びつく。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルを援助する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。
| 2009/06/01 16:28 |
第三次中東戦争 |
ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領した。戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大したことになる。スエズ運河東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通行不能となった。なお、六日で勝敗が決したため「六日戦争」ともよばれる。
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1970年まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある[要出典]。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1970年まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある[要出典]。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。
| 2009/06/01 16:28 |
第二次中東戦争 |
1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。
戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。
エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれる
戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。
エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれる