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中東観察

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2009/07/14
10:04
ウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダ

アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アル・カーイダとそのリーダーであるウサーマが9/11テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。

ところが2001年11月、アフガニスタンのジャララバードターリバーン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。

疑問

イギリスBBC放送のドキュメンタリー『テロとの戦いの真相(The Power of Nightmares)』(2004年制作・放送。NHKの「BS世界のドキュメンタリー」でも放映された)では、

「ウサーマ・ビン=ラーディンはアルカーイダのリーダーであるといわれているが、『アルカーイダ』は元々アフガニスタンからソビエト軍を追い出すためにアメリカの情報機関であるCIAが育てたグループであり、『アルカーイダ』という名称自体、ビン=ラーディンを逮捕したいFBIがでっち上げた名称だ」 とした。しかし、NHK制作のNHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実~ビンラディンVSアメリカ~』(2002年8月31日放送)では、 「アルカーイダはビン=ラーディンがスーダン滞在中に編み上げた組織だ」 とされており、時系列的に双方の報道は矛盾する。米軍が遠征先で現地人を訓練して作戦遂行に用いるのは珍しいことではなく、現地要員養成はグリーンベレーの任務でもある。

ウサーマ・ビン=ラーディンの部下だと名乗る男の映像が2005年下旬に見つかっている。撮影場所ははっきりしていない。映像にでてきた男はイスラム教徒に「我々の石油がうばわれている。石油に関連する施設を攻撃せよ」などと述べている。

1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。

エピソード
 

  • 彼は左利きである。
  • ウサマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたもの。
  • ウサーマの兄サーリム・ビンラーディンはアメリカ合衆国テキサス州において小型飛行機事故で死亡している。
  • 2006年インド東部の村を荒らしまわった象はビン=ラーディンと名付けられた。
  • 2009年2月オーストラリア・ハミルトン島の観光ガイドのアルバイトに、ビン=ラーディンを名乗る、応募のビデオテープが送られてきた。内容は、何者かがビン=ラーディンを騙った、ただのブラックジョークだった。

脚注
  1. ^ NHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実~ビンラディンVSアメリカ~』(2002年8月31日放送)による例では、ナイロビの爆破テロでは、その準備のために「ヘルプ・アフリカピープル」という慈善団体を隠れ蓑にしていた。
  2. ^ USAMA BIN LADEN (FBI公式サイト)
  3. ^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
  4. ^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
  5. ^ National Commission on Terrorist Attacks (2004). The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ; W. W. Norton & Company. 同時多発テロに関する独立調査委員会『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』(WAVE出版、2008年)
  6. ^ 米国のAP通信は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。[要出典]
  7. ^ CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews
関連項目
 
 
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2009/07/14
10:00
ウサーマ・ビン=ラーディン

ウサーマ・ビン=ラーディンأسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされるサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。正確な生年は不明だが、1957年3月10日だという説がある。194cm。約73kg。FBI指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。

表記

日本語ではオサマ・ビンラディンNHKテレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン日本テレビTBSフジテレビテレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン読売新聞など)などとも表記される。

なお、「ビン=ラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン=ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン=ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている(人名#イスラム圏の名前を参照)。
 

ラーディン一族

ラーディン一族は、イエメンハドラマウト地方出身の名家(ハドラミー)で、サウジアラビアの建設業関係の財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ(SBG)」を形成しており、一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。グループは、1931年に創設され、石油ブーム時代に建築業で財を成し、マッカ及びメディナのモスクの修理を任されるほど、サウード家の高い信頼を得た。

現在、「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」は、アメリカ、アジア及び欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事している。グループは、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も保有している。これに加えて、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督している。

グループの特徴としては、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加していることが挙げられ、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン=ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの兄のサーレムは元アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発している。

ウサーマは、ムハンマド・ビン=ラーディンの17子(4人の妻から全部で52子)としてサウジアラビアで生まれ育ち、キング・アブドゥルアズィーズ大学経済・管理学部を卒業後、暫くの間、クルアーンの規定の遵守を監督するシャリーア警察に勤務していた。

ムジャーヒディーン

ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻1979年-1989年)時、サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン一家に支援を要請した。ウサーマは、駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにムジャーヒディーンとしてソ連軍と闘った。

サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキー・アル=ファイサル皇太子の委任により、ウサーマは個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共にアラブ諸国に「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト)を開設し、エジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。

反米
ムジャーヒディーンはアフガニスタンではアメリカ合衆国の後ろ盾を受けていたが、ソ連の敗退後、ビン=ラーディンはアフガニスタンで共に戦ったエジプトイスラム急進主義派テロ組織ジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどの影響を受け、反米活動に転じた。サウジアラビアへ帰国したウサーマは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。

ビン=ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれている[1]

1991年にスーダンに渡り、現地で組織の育成を行った。1996年頃にはスーダンから出国し、アフガニスタンに渡った。アフガニスタンでは最初はハーリス派、次いでターリバーンの庇護をうけた。ビン=ラーディンはアフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。

アフガニスタン滞在
1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」というファトワを布告した。8月にはタンザニアダルエスサラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きたアメリカ大使館爆破事件によってFBIから訴追をうけた[2]。アメリカは当時ビン=ラーディンをかくまっていたアフガニスタンターリバーン政権に対しビン=ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めた。しかしターリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議1267[3]が採択され、引き渡しを求められた。しかしターリバーン政権はこれに応じなかったため、経済制裁を受けた。2000年にもアル・カーイダは米艦コール襲撃事件をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333[4]によって再度引き渡しが求められた。

アメリカ同時多発テロ事件以後
ブッシュ政権は、2001年9月11日に発生した(アメリカ同時多発テロ事件)の首謀者をウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダであると断定した。アメリカ政府の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に逮捕され計画の全貌を自白したハリード・シャイフ・ムハンマド(Khalid Sheikh Mohammed)であり、ウサーマ・ビン=ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという[5]

2001年以降の足取り

2001年のターリバーン政権の崩壊以降、ビン=ラーディンの正確な足取りはわかっていない。

2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明である。一説では北朝鮮に潜伏している[6]などの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン=ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯ではないかという見解を示した[7]

活動の年譜

  • 2004年2月28日イラン・イスラム共和国放送パシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン=ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
  • 2004年10月29日カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。しかし、このビデオの信憑性を疑う者も多くいる[誰?]
  • 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン=ラーディン死亡説を報道した。
  • 2007年1月31日、米CNNアラブ首長国連邦ドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。

 

2009/07/02
11:48
ミール・ホセイン・ムーサヴィー・ハーメネ 02

2009年の大統領選挙 

2009年6月12日に行われる大統領選挙に3月10日出馬を表明した。

ムーサヴィーは、「短期的な利益のため、国家資源を浪費する愚を避けなければならない」と、インフレーションへの無策や、国民への現金支給といったバラマキ政策を行っているアフマディーネジャード大統領を厳しく批判している[18]。更に、「アフマディーネジャードはイラン人の名誉を汚した」とアフマディーネジャードがアメリカイスラエルへ過激で挑発的な発言を繰り返していることについても厳しく批判している[19]。また、アフマディーネジャードなどの保守強硬派が主張する「イスラム革命原理への回帰」の再定義を訴え、保守派の反アフマディーネジャード勢力への浸透を図っているとされた[18]

これらのことから、選挙戦での組織力で劣る改革派候補の中では強い候補であるとの見方の一方で、知名度や人気では第5代大統領のモハンマド・ハータミーには遠く及ばないとの見方もあった[20]。一方で、アフマディーネジャードに不満を持つ保守穏健派の票を集める可能性もあるとの見方もあった[21]

ムーサヴィーの出馬を受け、2009年2月に出馬を表明していたハータミーが3月に出馬を撤回した。

世論調査ではムーサヴィーの支持が上回っているというものも多く見られた。

しかし、現職アフマディーネジャードが62%を得票したとされ、これに納得出来ないムーサヴィー側が「選挙に不正があった」と主張し、支持者と警官隊の間で死傷者の出る混乱が続いている。[22]

イラン大統領選挙 (2009年)」も参照

 

脚注 

  1. ^ “イラン大統領選、改革派ムサビ元首相も出馬表明”. 産経新聞(. 2009年3月11日). http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090311/mds0903112029003-n1.htm 2009年4月7日 閲覧。. 
  2. ^ "Even Iran Can Change" (英語). Peyvand (09 November 2006). 2009-06-18 閲覧。
  3. ^ a b c d "Biography: Mir-Hossein Mousavi" (英語). RIA Novosti (09 June 2009). 2009-06-21 閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k "Mousavi, Hossein Biography" (英語). The Biography Channel website (2009). 2009-06-27 閲覧。
  5. ^ Martin, Patrick (2009-06-23). "The rebirth of an Iranian revolutionary" (英語). The Glove and Mail. 2009-06-24 閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m "زندگی‌نامه نامزدها: میر حسین موسوی" (ペルシア語). BBC Persian (21 May 2009). 2009-06-21 閲覧。
  7. ^ "میر حسین موسوی کیست؟" (ペルシア語). سياوشون (18 October 2008). 2009-06-21 閲覧。
  8. ^ "A First Lady for Iran" (英語). Zeldaily. 2009-06-21 閲覧。
  9. ^ a b c "Profile: Mir Hossein Mousavi". BBC (16 June 2009). 2009-06-21 閲覧。
  10. ^ Taplin, Jon (17 June 2009). "Different This Time" (英語). Talking Points Memo. 2009-06-29 閲覧。
  11. ^ Brownlee (2007), p.103
  12. ^ Baktiari (1996), pp.80-1.
  13. ^ Hiro, Dilip (1986). Iran under the Ayatollas. Routledge. ISBN 0710211236. 
  14. ^ Bozorgmehr, Najmeh (January 16, 2009). "Iran’s ex-PM seen as candidate". Financial Times. 2009-06-29 閲覧。
  15. ^ "میر حسین موسوی؛ تلاش برای خروج از انزوای ۲۰ ساله؟" (ペルシア語). BBC Persian (03 March 2009). 2009-06-29 閲覧。
  16. ^ Daragah, Borzou; Ramin Mostaghim, Kim Murphy (2009-06-22). “Mir-Hossein Mousavi's unusual career arc” (英語). Los Angeles Times. http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-iran-mousavi22-2009jun22,0,7316075.story 2009-06-22 閲覧。. 
  17. ^ "تصویب قانون اساسی جمهوری اسلامی" (ペルシア語). Islamic Republic News Agensy. 2009-06-21 閲覧。
  18. ^ a b “イラン大統領選にムサビ元首相が出馬表明”. 読売新聞(. 2009年3月14日). http://s04.megalodon.jp/2009-0318-0323-02/news.www.infoseek.co.jp/world/story/20090314_yol_oyt1t00861/ 2009年4月7日 閲覧。. 
  19. ^ "Mousavi: Ahmadinejad disgraced Iranians" (英語). Press TV (2009-05-24). 2009-06-29 閲覧。
  20. ^ “イラン大統領選、ハタミ師出馬撤回か 改革派乱立回避”. 朝日新聞(. 2009年3月16日). http://www.asahi.com/international/update/0316/TKY200903160324.html 2009年4月7日 閲覧。. 
  21. ^ “イラン前大統領が出馬撤回へ 改革派候補者一本化の動き”. 産経新聞(. 2009年3月16日). http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090316/mds0903161902004-n1.htm 2009年4月8日 閲覧。. 
  22. ^ “現職の強硬派大統領が再選=改革派候補に圧勝-「公正性」めぐり混乱拡大も・イラン”. 時事通信(. 2009年6月13日). http://jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009061300160 2009年6月13日 閲覧。. 

 

文献 

書籍
  • Baktiari, Bahman (1996). Parliamentary Politics in Revolutionary Iran. University Press of Florida. ISBN 0813014611. 
  • Brownlee, Jason (2007). Authoritarianism in an age of Democratization. Cambridge University Press. ISBN 052186951X.

2009/07/02
11:46
ミール・ホセイン・ムーサヴィー

ミール・ホセイン・ムーサヴィー・ハーメネペルシア語: میرحسین موسوی خامنه‎; Mīr-Ḥoseyn Mūsavī-Khāmeneh; 1941年9月29日- )はイラン人改革派政治家。画家、建築家でもある。1981年から1989年にかけて、第5代にして最後のイラン・イスラーム共和国首相職を務めた。ムーサヴィーは2009年6月現在イラン芸術アカデミー総裁。2009年の第10期大統領選挙に立候補した。

ムーサヴィーは1989年の憲法改正まで首相を務めた。同改正で首相職は廃止されたため最後の首相である。首相職以前は外務大臣職にあった。公益判別会議議員、文化革命高等評議会員であるが数年にわたり出席していない。政治アナリストや評論家は不満の現れと解釈している。革命初期には、ムーサヴィーはイスラーム共和党機関紙ジョムフーリーイェ・エスラーミー紙の編集長であった。政治的立場は改革派に属するが、保守穏健派からも支持があるとされる[1]。2009年の大統領選挙にあたっては色を陣営の色として選択。以降、緑色はイラン全土に浸透している[2]

民族的には、イラン国内の少数民族であるアゼルバイジャン人である。
 

ミール・ホセイン・ムーサヴィー・ハーメネ
میرحسین موسوی خامنه
ミール・ホセイン・ムーサヴィー

緑色のショールをかけたムーサヴィー。緑は2009年の選挙戦でのムーサヴィー陣営の色である。


在任期間
1981年10月31日 – 1989年8月3日
大統領 アリー・ハーメネイー
指導者 ルーホッラー・ホメイニー
アリー・ハーメネイー
前任者 モハンマド・レザー・マフダヴィー・キャニー (臨時代理)
後任者 廃止

在任期間
1981年8月15日 – 1981年12月15日
大統領 モハンマド・アリー・ラジャーイー
アリー・ハーメネイー
首相 モハンマド・ジャヴァード・バーホナル
モハンマド・レザー・マフダヴィー・キャニー(臨時代理)
ムーサヴィー外相在任のまま首相兼任
指導者 ルーホッラー・ホメイニー
前任者 モハンマド・アリー・ラジャーイー
後任者 アリー・アクバル・ヴェラーヤティー

生年月日 1941年9月29日(67歳)
ハーメネ, イラン
政党 無所属
配偶者 ザフラー・ラフナヴァルド
出身校 シャヒード・ベヘシュティー大学
宗教 イスラームシーア派十二イマーム派オスーリー学派

 

若年期とキャリア初期

ミール・ホセイン・ムーサヴィーは1941年9月29日イラン東アーザルバーイジャーン州ハーメネに生まれた[3]。父ミール・エスマーイールはタブリーズ出身の茶商人であった。ムーサヴィーはハーメネで育ち、1958年に高校を卒業するとテヘランに移った[4]。ムーサヴィーはハーメネに地縁をもつアリー・ハーメネイーの血縁で、ムーサヴィーの祖母はハーメネイーの父方の叔母にあたる[5]

60年代初期、ムーサヴィーは一人の青年としてイラン自由運動に緊密な関わりを持った[6]。イラン自由運動は宗教的・民族主義的政党でメフディー・バーザルガーンヤドッラー・サハービーマフムード・ターレガーニーモスタファー・チャムラーンアリー・シャリーアティーらによって結成されたものである。ムーサヴィーは、テヘランのホセイニーイェ・エルシャードで行われるシャリーアティーの講義に定期的に出席する学生活動家の一人であった[6]

建築学の学士号をテヘラン・メッリー大学(現在のシャヒード・ベヘシュティー大学)から取得[4]、1969年には、主に伝統的イラン建築に注目して[4]、建築学修士号を同じくメッリー大学から取得している[7]。学生生活のかたわら、左翼運動イスラーム学生連盟に活動的メンバーとして参画している[4]

1969年、ムーサヴィーはザフラー・ラフナヴァルドと結婚した。ザフラーは彫刻を専攻する大学研究生で、アリー・シャリーアティーの学生としても著名であった[6]。彼女はのちにアルザフラー大学の学長をつとめており、また前大統領モハンマド・ハータミーの政治顧問ともなっている[8]

ムーサヴィーは妻とともにイラン・イスラーム革命の成功に積極的役割を果たした[9]モハンマド・レザー・シャー君主制に反対する街頭での抗議活動を組織したとして投獄されたこともある[4][6]。革命が近づくにつれ、早い段階からチェ・ゲバラを政治的英雄としていたムーサヴィー[10]は、闘争により積極的に関わるようになり、まもなく革命指導者ルーホッラー・ホメイニーの緊密な協力者モハンマド・ベヘシュティーの戦列に加わった[6]

1979年1月、シャーは亡命。数週間後にホメイニーがテヘランへ帰還した。

ムーサヴィーはベヘシュティーによる1979年のイスラーム共和党の設立に協力。これはイランにおけるイスラーム共和国の創設と君主制の早急な打倒のためのものである[4]。イスラーム共和党でムーサヴィーは政治書記となり[6]、また機関紙「ジョムフーリーイェ・エスラーミー」の編集長を務めた[6]

1979年半、ムーサヴィーはホメイニーからイスラーム革命委員会委員に任じられた[11]。ジョムフーリーイェ・エスラーミーの編集長として、初代大統領アボルハサン・バニーサドルに反対。1981年にバニーサドルが議会の弾劾を受けてフランスへ出国するまで強い非難を加えた[12]

1981年8月15日モハンマド・アリー・ラジャーイー政権での政府再建の一環として、外務大臣に任じられた[6]首相に昇任する1981年12月15日まで約5ヵ月在任した[4]

 

首相として 

1981年8月、大統領モハンマド・アリー・ラジャーイーと首相モハンマド・ジャヴァード・バーホナルが爆弾テロにより暗殺された。10月の大統領選挙アリー・ハーメネイー大統領に選出された。ハーメネイーはアリー・アクバル・ヴェラーヤティーを首相に推すが、議会での信任投票において不信任80票、信任74票で信任は与えられなかった[6]。その後、ハーメネイーは左派主導の議会との妥協の結果、強い拒否感を抱きつつもムーサヴィーを首相候補とした[6]。議会では10月28日、115票対39票でムーサヴィーを信任[13]1981年10月31日、ムーサヴィーはイランの第79代首相に就任し[3]1989年8月3日まで8年間にわたって在任した。

イスラーム共和国内において左派に属したムーサヴィーと右派に属したハーメネイーの対立は、この後の8年間、ともに政府を担いつつ継続することになり[6]イラン・イラク戦争終結直後の1988年にはムーサヴィーの辞表提出という事態を招いている[6]。しかし最高指導者ルーホッラー・ホメイニーは辞表の受理を拒否している。これは、ムーサヴィーはホメイニーの全面的支援を受けていたためであり、異論を容認しない政府を率いた政治家として記憶されている[9]

ムーサヴィーの首相職はイラン・イラク戦争と表裏一体のものであった。戦争の期間を通じて、ムーサヴィーはイランを指導し、国家経済の運営において一般民衆からの賞賛を浴びている[4]。配給券を基礎とした経済体制を提唱し、このシステムはイラン・イラク戦争中、人々への公正な財の分配に寄与したと考えられている[14]

多くの専門家はムーサヴィーによるイラン経済の運営と、イラン・イラク戦争期の内政・経済における指導力、国際的孤立状況からの脱却における努力を賞賛している[15]。一方、彼は「気まぐれ」な性格で、イランの複雑な政治制度の進路を指し示すにあたって、ムーサヴィーはそのライヴァルらに比して、なしえたことは少ないとも評される[16]

イラン・イラク戦争終結直後の1988年8月20日、ルーホッラー・ホメイニー死去。専門家会議により、アリー・ハーメネイーが新たな最高指導者に選出された。ホメイニーの死により、ムーサヴィーとその左派陣営は体制内における支持基盤を失うこととなった[6]

戦後復興計画をめぐる議会審理において、ムーサヴィーは当時の議会議長アリー・アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーと激しい論戦を繰り広げた。これは戦後復興のために西側諸国の支援の提案を受け入れるべきとするラフサンジャーニーの提起をめぐってのものである[9]

1989年7月28日憲法は国民投票での97%の賛成を得て改正された。この時点で議会の新議長となっていたメフディー・キャッルービーにより、布告された[17]。この憲法改正により、首相職は廃止された[3]

ハーシェミー・ラフサンジャーニーは1989年7月28日大統領選挙で第5代大統領に選出され、8月3日に就任。同日がムーサヴィーの首相在任の最後となった[3]。ムーサヴィーは1906年イラン立憲革命から数えて、第79代にして最後のイランの首相となった。

ムーサヴィーは新たにラフサンジャーニーが率いる政府への参画を求められることはなく、公の場から姿を消した[4]

 

政治からの引退 

1989年のイスラーム共和国の創設者ホメイニーが死去したとき、ムーサヴィーはもはや体制において歓迎される存在ではなくなっていた[4]。彼は政治から引退し、イラン・イスラーム共和国芸術アカデミー総裁となって、建築と教育の場に戻った。公的な場からはほぼ完全に姿を表さず、多くの人々がこれを支配体制への不満を表すものとみなしている[4]

 

過去の選挙 

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ムーサヴィーは1997年の大統領選挙への立候補は辞退。さほど知名度の高くないモハンマド・ハータミーの地滑り的大勝につながった。ハータミーは旧ムーサヴィー内閣で閣僚を務めていた。ハータミー政権期、ムーサヴィーは大統領上級顧問となっている。

2005年大統領選挙でもムーサヴィーは改革派連合の主要候補者として名を挙げられた。しかし、2004年10月12日、ハータミー大統領および主要改革派政党指導者2名、すなわち闘うウラマー集団メフディー・キャッルービーモハンマド・ムーサヴィー・ホエイニーハーとの会談後、公式に立候補を辞退している[要出典]