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2009/07/14 10:00 |
ウサーマ・ビン=ラーディン |
表記
日本語ではオサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される。
なお、「ビン=ラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン=ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン=ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている(人名#イスラム圏の名前を参照)。
ラーディン一族
ラーディン一族は、イエメンのハドラマウト地方出身の名家(ハドラミー)で、サウジアラビアの建設業関係の財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ(SBG)」を形成しており、一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。グループは、1931年に創設され、石油ブーム時代に建築業で財を成し、マッカ及びメディナのモスクの修理を任されるほど、サウード家の高い信頼を得た。
現在、「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」は、アメリカ、アジア及び欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事している。グループは、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も保有している。これに加えて、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督している。
グループの特徴としては、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加していることが挙げられ、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン=ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの兄のサーレムは元アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発している。
ウサーマは、ムハンマド・ビン=ラーディンの17子(4人の妻から全部で52子)としてサウジアラビアで生まれ育ち、キング・アブドゥルアズィーズ大学経済・管理学部を卒業後、暫くの間、クルアーンの規定の遵守を監督するシャリーア警察に勤務していた。
ムジャーヒディーン
ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年-1989年)時、サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン一家に支援を要請した。ウサーマは、駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにムジャーヒディーンとしてソ連軍と闘った。
サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキー・アル=ファイサル皇太子の委任により、ウサーマは個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共にアラブ諸国に「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト)を開設し、エジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。
反米
ムジャーヒディーンはアフガニスタンではアメリカ合衆国の後ろ盾を受けていたが、ソ連の敗退後、ビン=ラーディンはアフガニスタンで共に戦ったエジプトのイスラム急進主義派テロ組織ジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどの影響を受け、反米活動に転じた。サウジアラビアへ帰国したウサーマは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。
ビン=ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義(原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれている[1]
1991年にスーダンに渡り、現地で組織の育成を行った。1996年頃にはスーダンから出国し、アフガニスタンに渡った。アフガニスタンでは最初はハーリス派、次いでターリバーンの庇護をうけた。ビン=ラーディンはアフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。
アフガニスタン滞在
1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」というファトワを布告した。8月にはタンザニアのダルエスサラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きたアメリカ大使館爆破事件によってFBIから訴追をうけた[2]。アメリカは当時ビン=ラーディンをかくまっていたアフガニスタンのターリバーン政権に対しビン=ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めた。しかしターリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議1267[3]が採択され、引き渡しを求められた。しかしターリバーン政権はこれに応じなかったため、経済制裁を受けた。2000年にもアル・カーイダは米艦コール襲撃事件をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333[4]によって再度引き渡しが求められた。
アメリカ同時多発テロ事件以後
ブッシュ政権は、2001年9月11日に発生した(アメリカ同時多発テロ事件)の首謀者をウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダであると断定した。アメリカ政府の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に逮捕され計画の全貌を自白したハリード・シャイフ・ムハンマド(Khalid Sheikh Mohammed)であり、ウサーマ・ビン=ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという[5]。
2001年以降の足取り
2001年のターリバーン政権の崩壊以降、ビン=ラーディンの正確な足取りはわかっていない。
2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明である。一説では北朝鮮に潜伏している[6]などの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン=ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯ではないかという見解を示した[7]。
活動の年譜
- 1979年、ソビエトがアフガニスタンに侵攻。アメリカの援助のもと、これに対抗すべく現地入りし、ムジャーヒディーンの一人となってソビエト軍との戦いに参加する。
- 1991年、湾岸戦争。米軍のサウジ駐留に反発し、「聖地メッカを異教徒の手にゆだねるというのか」とシュプレヒコールをあげる。
- 1994年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、一時スーダンに身を寄せる。建築事業を営み、スーダンのインフラ整備に尽力する。アル・カーイダの組織醸成はこの時期この地でおこなわれ、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。
- 1996年、アフガニスタンに移動しイスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアル・カーイダの基地を作り、テロ訓練を行ったとみられる。
- 1998年、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線結成。アメリカ大使館爆破事件。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。
- 1999年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1267でビン=ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2000年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン=ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2001年秋、アル・カーイダのメンバーであるモハメド・アタ他数名による9.11アメリカ同時多発テロ事件発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2002年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン=ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の資産凍結を決定。
- 2004年2月28日、イラン・イスラム共和国放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン=ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。しかし、このビデオの信憑性を疑う者も多くいる[誰?]。
- 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン=ラーディン死亡説を報道した。
- 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。
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