2024/11/25 01:47 |
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2009/06/17 09:34 |
ムハンマドと女性 |
イスラーム共同体(ウンマ)がヒジュラとマッカ征服によって急速に勢力を拡大すると、抗争をくり返していたアラビア半島のアラブ諸部族は共同体の首長であるムハンマドの政治交渉における誠実さを見込み、彼と同盟関係を結ぶなどした。この過程でムハンマドは共同体内部の有力家系の婦女の他に、征服した勢力や同盟・帰順関係を結んでいたアラブ諸部族などからも妻を迎えることとなった。伝承によると、ムハンマドの妻たちは22人居たと伝えられる。ムハンマドの女性観、女性関係はムハンマドが非ムスリムを中心として批判される原因ともなった。
ムハンマドの妻・妾一覧
正妻
ハディージャ
サウダ・ビント・ザムア:en
アーイシャ(アブー=バクルの娘)
ハフサ(ウマルの娘):en
ウンム・サラマ・ヒンド(アブー・スフヤーンの娘):en
ザイナブ・ビント・フザイマ:en
ウンム・ハリーマ・ザイナブ・ビント・ジュフシュ:en
ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス:en
ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーン(アブー・スフヤーンの娘で上記のウンム・サラマの姉妹):en
サフィーヤ・ビント・フヤイイ(ハイバル出身):en
マイムーナ・ビント・アル=ハーリス:en
コプトのマリア(マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーン):en(ムハンマドの末子イブラーヒームの母。エジプト出身のコプト教徒の娘。[11])
シャラーフ・ビント・ハリーファ・アル=カルビー(ベドウィンの出身でムハンマド在世中に死去)
アーリーヤ・ビント・ズブヤーン(ムハンマド在世中に離婚。)
ファーティマ・ビント・ダハーク・アル=ハズィーリー(ムハンマド在世中に離婚。)
アスマ-ウ? (ソバ出身)
ハブラ
アスマーウ? (ノーマン出身)
側室
ライハーナ?
ウンム・シャンク?
クハウラ
ムハンマドに遡る結婚規定について
イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と娶ってはならない女性があることが述べられている。
「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならばその連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第4章23節)
ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したという[12]。同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。
また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという[13](ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。
ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは大変美しい女性であったとされ、その美貌に魅せられたムハンマドは彼女を自分の妻にしたいと願った。彼女はムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[14]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[15]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[16]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[17]。
このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またコーラン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[18]。
アーイシャとの婚姻をめぐる議論
ハディースなどの伝承によると、最初の妻ハディージャが没した後、ムハンマドはヒジュラ後のメディナ居住時代に寡婦サウダとアブー・バクルの娘アーイシャと結婚している。ムハンマドの妻たちの多くは結婚経験がある者がほとんどで、ハディースなどの記録による限り結婚時に処女だったのはアーイシャのみであり、特に当時のアラブ社会でも(現在でも中東や東欧など第三世界でもそうだが)他の地域と同じく、良家の子女にとって婚姻以前の「処女性」は非常に重要視されており、アーイシャの場合も処女で婚儀を結んだことがムスリムの女性の模範のひとつとして重要視されている。
ただ、このムハンマドの最愛の妻と呼ばれたアーイシャは、結婚時9歳(満8歳)であり、対してムハンマドは50歳代に達していた。そのため反イスラーム主義者の一部はこれを口実に『ムハンマドは9歳(満8歳)の女の子とセックス(性行為)を行ったのではないか?』(現代でいうところのペドフィリア、児童性愛、チャイルド・マレスター)とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている[19]。
これに対してムハンマドの擁護者などは、前近代の人類社会では有力家系の子女が10歳前後で結婚することはありふれており[20]、その場合は結婚してもおおよそ初潮後の適齢になるまでセックスは行わないのが通例であったとして反論している。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったとも主張している[21]。
ただし、ハディースにはアーイシャ自身からの伝承として、「彼女は6歳の時に預言者(ムハンマド)に嫁ぎ9歳(満8歳)の時に正式に結婚し、9年間を共に暮らした」[22]とあり、「正式な結婚」とは婚儀の後の結婚初夜のセックス・性行為も含まれるとされる。
またイスラームにおいて預言者ムハンマドの言動(ハディース)は一部の例外を除いてムスリムの言動の鑑とされていることから、イスラーム世界における児童性的虐待や幼童婚の慣習の正当化に、ムハンマドとアーイシャの事例が用いられているという批判も存在している。イスラーム法における女子の最低結婚年齢は多くの解釈では9歳であるが、これはアーイシャの結婚時の年齢を基にしたものである。
一夫多妻に関しての議論
ムハンマドらが生きて居た当時、一定以上の財産・地位を持つ自由民男性は通常複数の女性と結婚し、当然ながら子孫を得るため彼女らとセックス・性行為を行った。これはムハンマドも同様であった[23]。
この事自体は(現代ならばともかく)その当時の人類社会における富裕層・支配層では極当たり前の習慣であり[24]、前近代の社会においては一般的で過度に強調するべきことではないともいえる。ただし、当然のことだがこの家族形態(一夫多妻)が前近代の社会で一定程度見られたことを認めることと、この家族形態が現代社会においても正当性を有するとみなしこれを是認するか否かと論じることは、また別の問題である。
天国に対する発言
イブン・カスィールによれば、ムハンマドは『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[25]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[26]。
ティルミズィーによるハディース集成書『スナン』によるとムハンマドは「天国の民への最小の報い」として八十人の召使いと七十二人の妻がおり、真珠とアクアマリンとルビーで飾られた天蓋のある、アルジャビアからサナアまでほどの広さを持つ住居をあげたという[27]。
別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ!そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという。[25] ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らす[28]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[29]。
このような事柄はムハンマドのハディースのみならず、クルアーンにも記されている[30]。
このため反イスラーム主義者はムハンマドを『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスは『ムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[31]。
セックスに対する認識
ムスリムの真正集によれば、ムハンマドはある日美しい女性を見て彼女とセックスしたいという欲望に駆られ、その足ですぐ家に戻り妻の一人ザイナブとセックスをした。ムハンマドは事が終わった後教友(サハーバ)達の所に赴き、女性は男に性欲を喚起させる悪魔(シャイターン)のような存在であるのだから、女性を見て彼女に欲情した時はすぐに妻のところに赴き性交することで情欲を抑えるように説教したとされる[32]。
女性捕虜の取り扱い
前近代において、イスラーム共同体と非ムスリム世界との戦争によって発生した女性の捕虜に対しては、イスラーム戦士への戦利品として分配され、強姦されることが存在した。このことについて、ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において既にこのような事例が存在しており、ムハンマドもそれを勝利者男性の当然の権利として認めていたこと、そしてその権利をめぐる紛争の調停にも当たっていたことが記されている[33]。
ムハンマドと奴隷
ムハンマドは当時の有力者と同じく奴隷を所有したが、その取り扱いは当時の基準に照らせばかなり寛容なものであったとされる。クルアーンとハディースでは奴隷の所有それ自体は禁じられていないが、なるべく穏やかに扱うべきだと説かれている。ムハンマドとアブー・バクルにより粗暴な主人のもとから解放された黒人奴隷ビラールは、初期のムスリムの一人である。
ムハンマドの妻・妾一覧
正妻
ハディージャ
サウダ・ビント・ザムア:en
アーイシャ(アブー=バクルの娘)
ハフサ(ウマルの娘):en
ウンム・サラマ・ヒンド(アブー・スフヤーンの娘):en
ザイナブ・ビント・フザイマ:en
ウンム・ハリーマ・ザイナブ・ビント・ジュフシュ:en
ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス:en
ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーン(アブー・スフヤーンの娘で上記のウンム・サラマの姉妹):en
サフィーヤ・ビント・フヤイイ(ハイバル出身):en
マイムーナ・ビント・アル=ハーリス:en
コプトのマリア(マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーン):en(ムハンマドの末子イブラーヒームの母。エジプト出身のコプト教徒の娘。[11])
シャラーフ・ビント・ハリーファ・アル=カルビー(ベドウィンの出身でムハンマド在世中に死去)
アーリーヤ・ビント・ズブヤーン(ムハンマド在世中に離婚。)
ファーティマ・ビント・ダハーク・アル=ハズィーリー(ムハンマド在世中に離婚。)
アスマ-ウ? (ソバ出身)
ハブラ
アスマーウ? (ノーマン出身)
側室
ライハーナ?
ウンム・シャンク?
クハウラ
ムハンマドに遡る結婚規定について
イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と娶ってはならない女性があることが述べられている。
「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならばその連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第4章23節)
ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したという[12]。同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。
また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという[13](ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。
ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは大変美しい女性であったとされ、その美貌に魅せられたムハンマドは彼女を自分の妻にしたいと願った。彼女はムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[14]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[15]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[16]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[17]。
このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またコーラン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[18]。
アーイシャとの婚姻をめぐる議論
ハディースなどの伝承によると、最初の妻ハディージャが没した後、ムハンマドはヒジュラ後のメディナ居住時代に寡婦サウダとアブー・バクルの娘アーイシャと結婚している。ムハンマドの妻たちの多くは結婚経験がある者がほとんどで、ハディースなどの記録による限り結婚時に処女だったのはアーイシャのみであり、特に当時のアラブ社会でも(現在でも中東や東欧など第三世界でもそうだが)他の地域と同じく、良家の子女にとって婚姻以前の「処女性」は非常に重要視されており、アーイシャの場合も処女で婚儀を結んだことがムスリムの女性の模範のひとつとして重要視されている。
ただ、このムハンマドの最愛の妻と呼ばれたアーイシャは、結婚時9歳(満8歳)であり、対してムハンマドは50歳代に達していた。そのため反イスラーム主義者の一部はこれを口実に『ムハンマドは9歳(満8歳)の女の子とセックス(性行為)を行ったのではないか?』(現代でいうところのペドフィリア、児童性愛、チャイルド・マレスター)とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている[19]。
これに対してムハンマドの擁護者などは、前近代の人類社会では有力家系の子女が10歳前後で結婚することはありふれており[20]、その場合は結婚してもおおよそ初潮後の適齢になるまでセックスは行わないのが通例であったとして反論している。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったとも主張している[21]。
ただし、ハディースにはアーイシャ自身からの伝承として、「彼女は6歳の時に預言者(ムハンマド)に嫁ぎ9歳(満8歳)の時に正式に結婚し、9年間を共に暮らした」[22]とあり、「正式な結婚」とは婚儀の後の結婚初夜のセックス・性行為も含まれるとされる。
またイスラームにおいて預言者ムハンマドの言動(ハディース)は一部の例外を除いてムスリムの言動の鑑とされていることから、イスラーム世界における児童性的虐待や幼童婚の慣習の正当化に、ムハンマドとアーイシャの事例が用いられているという批判も存在している。イスラーム法における女子の最低結婚年齢は多くの解釈では9歳であるが、これはアーイシャの結婚時の年齢を基にしたものである。
一夫多妻に関しての議論
ムハンマドらが生きて居た当時、一定以上の財産・地位を持つ自由民男性は通常複数の女性と結婚し、当然ながら子孫を得るため彼女らとセックス・性行為を行った。これはムハンマドも同様であった[23]。
この事自体は(現代ならばともかく)その当時の人類社会における富裕層・支配層では極当たり前の習慣であり[24]、前近代の社会においては一般的で過度に強調するべきことではないともいえる。ただし、当然のことだがこの家族形態(一夫多妻)が前近代の社会で一定程度見られたことを認めることと、この家族形態が現代社会においても正当性を有するとみなしこれを是認するか否かと論じることは、また別の問題である。
天国に対する発言
イブン・カスィールによれば、ムハンマドは『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[25]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[26]。
ティルミズィーによるハディース集成書『スナン』によるとムハンマドは「天国の民への最小の報い」として八十人の召使いと七十二人の妻がおり、真珠とアクアマリンとルビーで飾られた天蓋のある、アルジャビアからサナアまでほどの広さを持つ住居をあげたという[27]。
別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ!そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという。[25] ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らす[28]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[29]。
このような事柄はムハンマドのハディースのみならず、クルアーンにも記されている[30]。
このため反イスラーム主義者はムハンマドを『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスは『ムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[31]。
セックスに対する認識
ムスリムの真正集によれば、ムハンマドはある日美しい女性を見て彼女とセックスしたいという欲望に駆られ、その足ですぐ家に戻り妻の一人ザイナブとセックスをした。ムハンマドは事が終わった後教友(サハーバ)達の所に赴き、女性は男に性欲を喚起させる悪魔(シャイターン)のような存在であるのだから、女性を見て彼女に欲情した時はすぐに妻のところに赴き性交することで情欲を抑えるように説教したとされる[32]。
女性捕虜の取り扱い
前近代において、イスラーム共同体と非ムスリム世界との戦争によって発生した女性の捕虜に対しては、イスラーム戦士への戦利品として分配され、強姦されることが存在した。このことについて、ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において既にこのような事例が存在しており、ムハンマドもそれを勝利者男性の当然の権利として認めていたこと、そしてその権利をめぐる紛争の調停にも当たっていたことが記されている[33]。
ムハンマドと奴隷
ムハンマドは当時の有力者と同じく奴隷を所有したが、その取り扱いは当時の基準に照らせばかなり寛容なものであったとされる。クルアーンとハディースでは奴隷の所有それ自体は禁じられていないが、なるべく穏やかに扱うべきだと説かれている。ムハンマドとアブー・バクルにより粗暴な主人のもとから解放された黒人奴隷ビラールは、初期のムスリムの一人である。
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