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2009/06/17
09:37
ムハンマド批判 異教徒問題

ムハンマドの異教徒に対する政策も批判の対象となることがある。


クライザ族の虐殺について [編集]
627年5月、ムハンマド率いるイスラム教軍はムハンマドの暗殺やイスラームへ改宗したメディナのアラブ人の謀殺を行うなど、対立が続いていたユダヤ教徒のナディール族と戦闘になり、その集落を包囲陥落し彼らを追放した。627年3月、ムハンマドはハンダクの戦いでメッカ軍の総攻撃を撃退し勝利した。その後ハンダクの戦いで敵対的中立を保っていたユダヤ教徒のクライザ族を討伐するためサアド・ブン・ムアーズ・アル=アウシーに軍の全権を委ねて派遣した。624年5月1日に、15日間の包囲攻撃のすえクライザ族は全面降伏したが、サアドは成人男性全員を処刑し、婦女子は捕虜として全員奴隷身分(つまり、妾)に下し、その財産は全て没収してムスリムへ分配するという苛烈・残虐な処断を行った。この時虐殺された戦士層の人数は1000人にのぼったと伝えられる。ムハンマドは「まさしく汝は神(アッラー)と神の使徒(ムハンマド自身)の意に適う判決を行った」とこのきわめて残虐な非人道的行為を全面的に支持したという。続くハイバル遠征でナディール族が全面降伏した結果、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーの各ユダヤ教徒系のアラブ諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった[23]。このことに関して、非ムスリムからは少なからずムハンマドへの批判が存在している。


天国に関する発言について [編集]
イブン・カスィールによれば、ムハンマドは『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[24]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[25]。

別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ! そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという[24]。ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らす[26]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[27]このような事柄はムハンマドのハディースのみならず、クルアーンにも記されている[28]。

このため反イスラーム主義者はムハンマドを『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスは『ムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[29]。

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2009/06/17
09:37
ムハンマドへの批判

ムハンマドへの批判の項目では、イスラームの預言者・開祖であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフへの批判について記述する。キリスト教の開祖ナザレのイエス、仏教の開祖ゴーダマ・シッダールダなどの他の宗教指導者同様、ムハンマドに関してもその生涯・思想などに関してさまざまに批判されている。

ムハンマドの結婚に関して [編集]
キリスト教世界におけるムハンマドへの批判の主なもののひとつに、彼が一夫多妻であったということがあるとジョン・エスポシト(John Esposito)は述べている[1]。しかしこの問題に関するキリスト教世界の学者たちの意見は近年変わり始めている[2]。エスポシトの述べるところによれば、セム系民族の文化は一般に一夫多妻であった(たとえば聖書の書かれた時期、およびそれ以前のユダヤ教など) 。一夫多妻はアラブ人、とりわけ貴族や指導者には通常のことだった[1]。ムスリムはしばしば以下のことを指摘した。すなわちムハンマドは彼が25歳の時に、40歳になろうかという未亡人ハディージャと結婚し、彼女が死ぬまでの25年間他に妻を娶らなかった。しかし、ファズルール・ラフマン(Fazlur Rahman)の主張するところによれば、彼が50歳になって以降、とりわけ彼が説教者であり宗教体系の創始者となって以降は一夫一妻を続けることができなくなった[2][1]。エスポシトは11回にわたるムハンマドの結婚のほとんどは社会的・政治的原因が存在しているとしている。政治的同盟を強固なものとするのに結婚を用いることは、アラブ人の指導者にとって通常のことであった。又処女性を強調する社会で、寡婦の再婚は著しく困難であった[1]。


アーイシャとの結婚に関して [編集]
ムハンマドとアーイシャとの結婚はとりわけ論争を呼んでいるが、それは主として彼女の結婚時の年齢に起因している。D. A.スペルバーグ(Denise A. Spellberg)が述べるところによれば、イブン・サードによる伝承ではアーイシャの結婚時の年齢は6歳から7歳であるという[3]。彼女は両親の家に思春期が始まる9歳になるまでとどまり (イブン・ヒシャームによれば10歳)、そして彼女とムハンマドとの結婚は完成された(初夜のセックスを行った)[3][4]スペルバーグの述べるところによれば、アーイシャの年齢に関するこれらの記述はアーイシャの地位と、婉曲的であるものの処女性を強調するという[3]。

アーイシャの年齢は、ムハンマドがあまりにも幼い少女とセックスを行ったと考えるいくらかの非ムスリムにとっては特に問題である。非ムスリムの研究者の間では少なからず、とりわけ反イスラーム主義者を中心として、ムハンマドの行為は今日の世界では児童性的虐待にあたり、決して容認できないとする意見が存在している[5]。反イスラーム主義者のハーシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)は、「自分が53歳のときに6歳の女の子と結婚し、9歳のときに結婚を完成させた-初夜の性交を行った-堕落者」と預言者ムハンマドを攻撃した。またアメリカのバプテスト主義の指導者ジェリー・ヴァインズ(Jerry Vines)はムハンマドを「邪悪な小児性愛者」と呼んだ[6][7]。ユダヤ教徒とプロテスタント主流派の指導者はムスリムとともにジェリーのコメントを糾弾するのに加わった。名誉毀損防止同盟のエイブラハム・フォックスマンはこのコメントを嘆かわしいとし、加えてそれが「他の宗教を中傷して、反合法化してきた実績を持っている」南部バプテスト協会の指導部から出されたことは驚くべきことではないとした[7]。

ペルシア語とイスラーム史の専門家コリン・ターナーは、そのような成人男子と幼い少女との結婚は当時のベドウィンの慣習であったし、世界の多くの地域でもなお行われており[8]、よってムハンマドの結婚は少なくとも当時の文脈に照らせば不適切ではないと述べた。コリンは7世紀のアラブ人は現代の欧米人より早く体が成熟する傾向があったとも主張している[9]。ただし彼は医学の専門家ではなく、具体的にどの程度早いかということも明確にはしていない。コリンの肉体的成熟に関する議論には異論が強い[10]。また当時の文脈において仮に「問題ない」としても、現代においてその評価を無批判に再生産する必要があるのかという意見もある。イスラーム法を厳格に施行するイスラーム国家(シーア派12イマーム派のイランやスンナ派ワッハーブ派のサウジアラビアなど)では、現代においてもムハンマドの事跡に基づき9歳の少女との結婚・性行為も合法である場合があり、このことも批判の原因となっている。

アーイシャの結婚の年齢が実際に9歳であったかについても議論がある。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったと主張するなど、異論が多い[11]。


サフィーヤ・ビント=フヤーイーとの結婚に関して [編集]
サフィーヤ・ビント=フヤーイーはバヌー・ナディール族のユダヤ人女性であり、17歳のときムハンマドの11番目の妻となった[12]。 イブン・イシャークの伝えるところによれば、ムハンマドは彼女の夫であるキナーナ・イブン=アル・ラービにいくらかの隠された財宝のありかを教えるよう願った。キナーナがそれを拒んだとき、ムハンマドは男に命じて彼を拷問させた。そしてその男は「彼の胸の上に火打石と打ち金を置き、彼が死に掛けるまで火をつけ続けた」という。キナーナはその後首をはねられた[13]。ムハンマドは彼女にイスラームへの改宗を求め、カイバルで彼女との結婚を完成させた(初夜のセックスを行った)[14][15]。学者の中にはムハンマドはユダヤ人の部族との和睦と善意の表明のためにサフィーヤと結婚することを選んだのだという意見を唱えるものもいる[16][17]。


ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して [編集]
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュはムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[18]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[19]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[20]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[21]。

このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またクルアーン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[22]。

2009/06/17
09:34
ムハンマド文献

井筒俊彦訳『コーラン』(上、中、下巻 岩波文庫 青 813-1〜813-3)岩波書店 改版版 1957-1958年。
藤本 勝次(翻訳)、池田 修(翻訳)、伴 康哉 (翻訳) 『コーラン〈1〉』『 コーラン〈2〉』 (中公クラシックス) 中央公論新社 2002年。
中田考(監修)、中田香織(翻訳)『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
牧野信也訳『ハディース イスラーム伝承集成』全3巻 中央公論社、1993-1994年。(文庫版 全6巻 中央文庫 中央公論新社、2001年)*ブハーリーのハディース集成書『真正集』の完訳。
小杉泰『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』(historia) 山川出版社、2002年5月。
小杉泰『イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 』(講談社現代新書)講談社、1994年7月。
中村廣治郎『イスラム教入門』(岩波新書 赤 538)1998年1月。
大塚和夫、小松久男、羽田正、小杉泰、東長靖、山内昌之 他『岩波 イスラーム辞典』岩波書店、2002年。(「アーイシャ」、「結婚」、「ムハンマド」ともに小杉泰が担当)
嶋田 襄平、佐藤 次高、板垣 雄三、日本イスラム協会他『新イスラム事典』平凡社、2002年。
片倉 もとこ、後藤 明、中村 光男、 加賀谷 寛『イスラーム世界事典』明石書店、2002年。
ズィーバ・ミール=ホセイニー著、山岸智子他訳、『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』明石書店、2004年

2009/06/17
09:34
ムハンマドと女性

イスラーム共同体(ウンマ)がヒジュラとマッカ征服によって急速に勢力を拡大すると、抗争をくり返していたアラビア半島のアラブ諸部族は共同体の首長であるムハンマドの政治交渉における誠実さを見込み、彼と同盟関係を結ぶなどした。この過程でムハンマドは共同体内部の有力家系の婦女の他に、征服した勢力や同盟・帰順関係を結んでいたアラブ諸部族などからも妻を迎えることとなった。伝承によると、ムハンマドの妻たちは22人居たと伝えられる。ムハンマドの女性観、女性関係はムハンマドが非ムスリムを中心として批判される原因ともなった。


ムハンマドの妻・妾一覧
正妻

ハディージャ
サウダ・ビント・ザムア:en
アーイシャ(アブー=バクルの娘)
ハフサ(ウマルの娘):en
ウンム・サラマ・ヒンド(アブー・スフヤーンの娘):en
ザイナブ・ビント・フザイマ:en
ウンム・ハリーマ・ザイナブ・ビント・ジュフシュ:en
ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス:en
ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーン(アブー・スフヤーンの娘で上記のウンム・サラマの姉妹):en
サフィーヤ・ビント・フヤイイ(ハイバル出身):en
マイムーナ・ビント・アル=ハーリス:en
コプトのマリア(マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーン):en(ムハンマドの末子イブラーヒームの母。エジプト出身のコプト教徒の娘。[11])
シャラーフ・ビント・ハリーファ・アル=カルビー(ベドウィンの出身でムハンマド在世中に死去)
アーリーヤ・ビント・ズブヤーン(ムハンマド在世中に離婚。)
ファーティマ・ビント・ダハーク・アル=ハズィーリー(ムハンマド在世中に離婚。)
アスマ-ウ? (ソバ出身)
ハブラ
アスマーウ? (ノーマン出身)
側室

ライハーナ?
ウンム・シャンク?
クハウラ

ムハンマドに遡る結婚規定について
イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と娶ってはならない女性があることが述べられている。

「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならばその連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第4章23節)
ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したという[12]。同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。

また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという[13](ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。


ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは大変美しい女性であったとされ、その美貌に魅せられたムハンマドは彼女を自分の妻にしたいと願った。彼女はムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[14]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[15]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[16]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[17]。

このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またコーラン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[18]。


アーイシャとの婚姻をめぐる議論
ハディースなどの伝承によると、最初の妻ハディージャが没した後、ムハンマドはヒジュラ後のメディナ居住時代に寡婦サウダとアブー・バクルの娘アーイシャと結婚している。ムハンマドの妻たちの多くは結婚経験がある者がほとんどで、ハディースなどの記録による限り結婚時に処女だったのはアーイシャのみであり、特に当時のアラブ社会でも(現在でも中東や東欧など第三世界でもそうだが)他の地域と同じく、良家の子女にとって婚姻以前の「処女性」は非常に重要視されており、アーイシャの場合も処女で婚儀を結んだことがムスリムの女性の模範のひとつとして重要視されている。

ただ、このムハンマドの最愛の妻と呼ばれたアーイシャは、結婚時9歳(満8歳)であり、対してムハンマドは50歳代に達していた。そのため反イスラーム主義者の一部はこれを口実に『ムハンマドは9歳(満8歳)の女の子とセックス(性行為)を行ったのではないか?』(現代でいうところのペドフィリア、児童性愛、チャイルド・マレスター)とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている[19]。

これに対してムハンマドの擁護者などは、前近代の人類社会では有力家系の子女が10歳前後で結婚することはありふれており[20]、その場合は結婚してもおおよそ初潮後の適齢になるまでセックスは行わないのが通例であったとして反論している。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったとも主張している[21]。

ただし、ハディースにはアーイシャ自身からの伝承として、「彼女は6歳の時に預言者(ムハンマド)に嫁ぎ9歳(満8歳)の時に正式に結婚し、9年間を共に暮らした」[22]とあり、「正式な結婚」とは婚儀の後の結婚初夜のセックス・性行為も含まれるとされる。

またイスラームにおいて預言者ムハンマドの言動(ハディース)は一部の例外を除いてムスリムの言動の鑑とされていることから、イスラーム世界における児童性的虐待や幼童婚の慣習の正当化に、ムハンマドとアーイシャの事例が用いられているという批判も存在している。イスラーム法における女子の最低結婚年齢は多くの解釈では9歳であるが、これはアーイシャの結婚時の年齢を基にしたものである。


一夫多妻に関しての議論
ムハンマドらが生きて居た当時、一定以上の財産・地位を持つ自由民男性は通常複数の女性と結婚し、当然ながら子孫を得るため彼女らとセックス・性行為を行った。これはムハンマドも同様であった[23]。

この事自体は(現代ならばともかく)その当時の人類社会における富裕層・支配層では極当たり前の習慣であり[24]、前近代の社会においては一般的で過度に強調するべきことではないともいえる。ただし、当然のことだがこの家族形態(一夫多妻)が前近代の社会で一定程度見られたことを認めることと、この家族形態が現代社会においても正当性を有するとみなしこれを是認するか否かと論じることは、また別の問題である。


天国に対する発言
イブン・カスィールによれば、ムハンマドは『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[25]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[26]。

ティルミズィーによるハディース集成書『スナン』によるとムハンマドは「天国の民への最小の報い」として八十人の召使いと七十二人の妻がおり、真珠とアクアマリンとルビーで飾られた天蓋のある、アルジャビアからサナアまでほどの広さを持つ住居をあげたという[27]。

別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ!そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという。[25] ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らす[28]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[29]。

このような事柄はムハンマドのハディースのみならず、クルアーンにも記されている[30]。

このため反イスラーム主義者はムハンマドを『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスは『ムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[31]。


セックスに対する認識
ムスリムの真正集によれば、ムハンマドはある日美しい女性を見て彼女とセックスしたいという欲望に駆られ、その足ですぐ家に戻り妻の一人ザイナブとセックスをした。ムハンマドは事が終わった後教友(サハーバ)達の所に赴き、女性は男に性欲を喚起させる悪魔(シャイターン)のような存在であるのだから、女性を見て彼女に欲情した時はすぐに妻のところに赴き性交することで情欲を抑えるように説教したとされる[32]。


女性捕虜の取り扱い
前近代において、イスラーム共同体と非ムスリム世界との戦争によって発生した女性の捕虜に対しては、イスラーム戦士への戦利品として分配され、強姦されることが存在した。このことについて、ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において既にこのような事例が存在しており、ムハンマドもそれを勝利者男性の当然の権利として認めていたこと、そしてその権利をめぐる紛争の調停にも当たっていたことが記されている[33]。


ムハンマドと奴隷
ムハンマドは当時の有力者と同じく奴隷を所有したが、その取り扱いは当時の基準に照らせばかなり寛容なものであったとされる。クルアーンとハディースでは奴隷の所有それ自体は禁じられていないが、なるべく穏やかに扱うべきだと説かれている。ムハンマドとアブー・バクルにより粗暴な主人のもとから解放された黒人奴隷ビラールは、初期のムスリムの一人である。

2009/06/17
09:32
征服者としてのムハンマド

ムハンマドは世俗的な意味においても世界史を塗り替えた人物である。アラビア半島を統一してイスラーム帝国の礎を築いた。ムハンマドは生涯26回も自ら信徒を率いて戦い、多くの戦いで先手を取り、ときには策略を用いて、何度も不利な戦闘で勝利するなどすぐれた軍事的指導者でもあった。また情勢を客観的に分析することができ外交も得意であった。征服者としてのムハンマドは冷酷かつ残酷な行動をとることも少なくなかった。


対ユダヤ教徒政策
イスラムのアラビア制覇は征服によるものばかりではなく、他部族への宣教、懐柔によるところも大きい。イスラーム教徒はもちろん、多くの非ムスリムもムハンマドを当時としてはたいへん寛容な人物であったとしており、クルアーンの初期の啓示からもそのことが確認できる。

しかしマッカとの交戦時代にはマディーナ憲章で互いの信仰が保証されていたにも関わらず、アラブのユダヤ教徒との宗教的・政治的対立に悩まされ続けた。特にマディーナへの移住以降、外来の自身とムスリムたちのマディーナでの地位向上を巡って内外の勢力との対立を深め、ユダヤ教徒であるカイヌカー族などはマッカ側と内通するなどしていた。624年4月、ひとりのムスリムとカイヌカー族のある男性との殺人事件をきっかけに武力対立が顕在化し、ついに同族の砦を包囲陥落。かれらはメディナから追放された。これを機に、キブラの方向はエルサレムからマッカに変更された。

また、627年5月には同じくムハンマドの暗殺やイスラームへ改宗したマディーナのアラブ人の謀殺を行うなど、対立が続いていたユダヤ教徒のナディール族とも戦闘になり、その集落を包囲陥落し彼らも追放となった。627年3月、ムハンマドはハンダクの戦いでマッカ軍の総攻撃を撃退し勝利した。その後ハンダクの戦いで敵対的中立を保っていたユダヤ教徒のクライザ族を討伐するためサアド・ブン・ムアーズ・アル=アウシーに軍の全権を委ねて派遣した。624年5月1日に、15日間の包囲攻撃のすえクライザ族は全面降伏したが、サアドは成人男性全員を処刑し、女性や子供は捕虜として全員奴隷身分に下し、その財産は全て没収してムスリムへ分配するという厳しい処断を行った。この時虐殺された戦士層の人数は1000人にのぼったと伝えられる。ムハンマドは「まさしく汝は神(アッラー)と神の使徒(ムハンマド自身)の意に適う判決を行った」とこのきわめて残虐な非人道的行為を全面的に支持したという[8]。続くハイバル遠征でナディール族が全面降伏した結果、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーの各ユダヤ教徒系のアラブ諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった[9]。

最終的にはアラビア半島から異教徒を駆逐するつもりであり[10]、異教徒に対する態度はむしろ自発的な改宗を期待し、他教を認めていた後のカリフたちのほうが寛容であったと指摘されている。ただし、アラビア半島からユダヤ教徒が完全に追放されたのはウマルの治世である。また開祖自身が宗教的迫害を実行したことは、後にイスラーム過激派が他宗教に対して暴力を振るう口実に利用されるようになったという面も指摘されている。

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