2024/11/25 11:10 |
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2009/06/19 18:01 |
イラン皇帝とアメリカ合衆国 |
アルノー・ド=ボルシュグラーヴは言う。
米国の諸政権は、1953年のCIAの主導によるモハンマド・モサッデグ政権の打倒と短期間ローマ亡命中のモハンマド・レザー・シャー復権の事件に始まり、1978年にシャーを裏切るまで、イランへの直接の内政干渉を行った[3]。
占領後、当初は立憲君主制国家となる望みがあった。若い新皇帝(シャー)、モハンマド・レザーは議会に大きな権力を委ね、君臨するに留まっていたのである。数回の選挙が流動的な状況下でおこなわれたが、これは多くの選挙違反の伴うものであった。議会は慢性的な不安定状態に陥り、1947年から1951年まで6人もの首相が入れ替わりに政権を担うこととなったのである。
1951年、民族主義者モハンマド・モサッデグが英国の所有する石油会社の国有化を主張して、議会によって首相に選ばれた。これがアーバーダーン危機の始まりである。英国の経済制裁などによる圧力はイランに多大な困難をもたらしたが、国有化政策は続行された。1952年、モサッデグは辞任を強制されたが、選挙での圧勝により再選、ひるがえってシャーに亡命を余儀なくさせた。モサッデグは共和国を宣言するが、数日後の8月19日、アジャックス作戦として知られるCIAと合衆国政府の策謀によってシャーは帰国して復位、モサッデグは職を追われて逮捕され、新任の首相はシャーによって任命された。
シャーはこの事件における米国の支持への見返りとして、1954年、英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印した。つまり石油の支配権も完全な利益もイランにはもたらされないことになったのである。1950年代末から1960年代には安定が回復した。1957年には16年にわたる戒厳令が解除され、イランはバグダード条約へ加盟し、米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。
しかしながら改革により経済状態の劇的な改善はなく、自由主義的西欧的政策はイスラーム的な宗教集団、政治集団を政権から遠ざけてゆく結果となる。1960年代半ば以降はモジャーヘディーネ・ハルク(MEK)などの組織の出現にともなって、政情は不安定化してゆく。1961年、シャーの白色革命として有名な、一連の経済、社会、行政改革を開始した。政策の核心は農地改革にあった。近代化と経済成長は空前の勢いで進行、世界第3位の膨大な石油埋蔵量がこれを後押しした。
1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。
国際関係においては1937年の協定でイラクに帰属するとされたシャッタルアラブ川の水路領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化している。1969年4月中の数回の衝突ののちイランは協定を破棄、再交渉を要求。イランは防衛費に多大な予算をつぎ込み1970年代初頭までには域内第一の軍事大国となっていた。これを背景に1971年11月、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領、イラクは報復として数千人のイラン人を追放した。この問題は1975年3月6日のアルジェ合意でようやく解決している。
1973年半ば、シャーは石油工業へのイランの管理権を回復した。1973年10月の第四次中東戦争にあたっては、西側およびイスラエルに対する石油禁輸措置には加わらず、原油価格上昇の好機をとらえて莫大な石油収入を得て、これを近代化と国防費に回した。1970年代初め、モジャーヘディーネ・ハルクは体制の弱体化、外国の影響力の排除を目的に、軍の契約にかかわるテヘラン駐在の米軍人、民間人の殺害事件を起こしている。
白色革命以降の経済成長による利益は、しかしながら非常に小さな集団に集中し、大多数の人々に恩恵がもたらされることはなかった。1970年代後半にはいると、宗教勢力に率いられた広範囲な反対運動が起こる。いまやシャーの統治への政治的・宗教的反感、特にSAVAKへの嫌悪が高まっていた。 1978年9月、戒厳令が全国主要都市に布告された(黒い金曜日を参照)が、シャーは権力基盤の崩壊を認識。翌1979年1月16日にシャーはイランから亡命し、帝政は崩壊した。
米国の諸政権は、1953年のCIAの主導によるモハンマド・モサッデグ政権の打倒と短期間ローマ亡命中のモハンマド・レザー・シャー復権の事件に始まり、1978年にシャーを裏切るまで、イランへの直接の内政干渉を行った[3]。
占領後、当初は立憲君主制国家となる望みがあった。若い新皇帝(シャー)、モハンマド・レザーは議会に大きな権力を委ね、君臨するに留まっていたのである。数回の選挙が流動的な状況下でおこなわれたが、これは多くの選挙違反の伴うものであった。議会は慢性的な不安定状態に陥り、1947年から1951年まで6人もの首相が入れ替わりに政権を担うこととなったのである。
1951年、民族主義者モハンマド・モサッデグが英国の所有する石油会社の国有化を主張して、議会によって首相に選ばれた。これがアーバーダーン危機の始まりである。英国の経済制裁などによる圧力はイランに多大な困難をもたらしたが、国有化政策は続行された。1952年、モサッデグは辞任を強制されたが、選挙での圧勝により再選、ひるがえってシャーに亡命を余儀なくさせた。モサッデグは共和国を宣言するが、数日後の8月19日、アジャックス作戦として知られるCIAと合衆国政府の策謀によってシャーは帰国して復位、モサッデグは職を追われて逮捕され、新任の首相はシャーによって任命された。
シャーはこの事件における米国の支持への見返りとして、1954年、英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印した。つまり石油の支配権も完全な利益もイランにはもたらされないことになったのである。1950年代末から1960年代には安定が回復した。1957年には16年にわたる戒厳令が解除され、イランはバグダード条約へ加盟し、米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。
しかしながら改革により経済状態の劇的な改善はなく、自由主義的西欧的政策はイスラーム的な宗教集団、政治集団を政権から遠ざけてゆく結果となる。1960年代半ば以降はモジャーヘディーネ・ハルク(MEK)などの組織の出現にともなって、政情は不安定化してゆく。1961年、シャーの白色革命として有名な、一連の経済、社会、行政改革を開始した。政策の核心は農地改革にあった。近代化と経済成長は空前の勢いで進行、世界第3位の膨大な石油埋蔵量がこれを後押しした。
1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。
国際関係においては1937年の協定でイラクに帰属するとされたシャッタルアラブ川の水路領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化している。1969年4月中の数回の衝突ののちイランは協定を破棄、再交渉を要求。イランは防衛費に多大な予算をつぎ込み1970年代初頭までには域内第一の軍事大国となっていた。これを背景に1971年11月、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領、イラクは報復として数千人のイラン人を追放した。この問題は1975年3月6日のアルジェ合意でようやく解決している。
1973年半ば、シャーは石油工業へのイランの管理権を回復した。1973年10月の第四次中東戦争にあたっては、西側およびイスラエルに対する石油禁輸措置には加わらず、原油価格上昇の好機をとらえて莫大な石油収入を得て、これを近代化と国防費に回した。1970年代初め、モジャーヘディーネ・ハルクは体制の弱体化、外国の影響力の排除を目的に、軍の契約にかかわるテヘラン駐在の米軍人、民間人の殺害事件を起こしている。
白色革命以降の経済成長による利益は、しかしながら非常に小さな集団に集中し、大多数の人々に恩恵がもたらされることはなかった。1970年代後半にはいると、宗教勢力に率いられた広範囲な反対運動が起こる。いまやシャーの統治への政治的・宗教的反感、特にSAVAKへの嫌悪が高まっていた。 1978年9月、戒厳令が全国主要都市に布告された(黒い金曜日を参照)が、シャーは権力基盤の崩壊を認識。翌1979年1月16日にシャーはイランから亡命し、帝政は崩壊した。
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