2024/11/25 09:25 |
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2009/06/19 18:01 |
イラン革命 |
イラン革命(イランかくめい) は、イランにおいて1979年に起こったルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、パフラヴィー朝に代わって政権を奪取した事件を中心とする政治的変動のことである。イラン・イスラム革命とも呼ばれる。パフラヴィー朝下のイランは1953年のモハンマド・モサッデク首相失脚後、ソビエト連邦の南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の支援を受けるようになり、脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取りつづけてきた。皇帝モハンマド・レザー・シャーは1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めた。シャーは自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧して、近代化革命を推し進めた。近代化にはイスラム教は邪魔と考え、厳しい弾圧を続けた。結果、宗教界の人々はもとより、右派から左派まで国民はシャー打倒を叫びだした。
1978年1月、フランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者のひとりであったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地ゴムで暴動が発生、宗教学生と警官隊が衝突した。この事件以降、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
皇帝側は宗教界と事態の収拾をはかったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・イスラム国家の樹立が叫ばれるに至った。11月、収拾策に行き詰まった皇帝は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に登用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化をはかったが、宗教界や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化をとどめることができず、反皇帝側の政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。
バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化をはかったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握した。
4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。
革命の国外に対する影響 [編集]
イスラム共和国体制は、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパフラヴィー朝を倒したことや、露骨な反欧米主義とイスラム至上主義を掲げたことから、アメリカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月にはアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となる。またパフラヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1)戦車やアメリカのキッド級ミサイル駆逐艦など多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。
一方、周辺のアラブ諸国にとっては、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラブ諸国からも孤立することになった。
1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。また、戦争は国際化し、ニカラグアの内戦(コントラ戦争)から波及したイラン・コントラ事件など、国際的なスキャンダルを巻き起こした。
また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火することを恐れたために長期化したとも言われる。
革命後のイラン [編集]
革命後は『イスラームの良き価値観』に基づいた支配を行う『ユートピア』としてのイスラム国家の建設が政権によって推進されることとなり、シャリーアが国法となった。このためイスラーム以外の宗教の信者はすべて二級市民(ズィンミーに相当)となり、バハーイー教徒のように信仰を禁じられる人々もいた。女性はヒジャブの着用を強制され、違反した場合逮捕されたり公職から追放された。イランにおける宗教的自由や女性の人権は大きく後退したとされる。そのため宗教的弱者や少なからぬ女性にとって革命後のイランはかつての全体主義社会同様の『ディストピア』的様相を帯びた。
シャリーアに基づき女性の結婚最低年齢は9歳となったため、女児への児童性的虐待は、それが正当な婚姻を経た後なら合法(ハラール)となる可能性さえ生まれた。
また革命にはつき物であるが、旧体制の支持者と断罪された人々が多く処刑された。その中には王党派のみならず、自由主義者やマルクス主義者なども存在していた。
革命後の教育と女性の地位の実像 [編集]
革命当時、ホメイニ師の指示で女性だけの革命防衛隊が組織されたことが知られるが、政府はそれ以降も一貫して人口の半数を構成する女性の革命体制への積極的な参加を促してきており、特に女性教育を重視して学校の増設や女性教育者の養成に取組んできた。この結果、革命がもたらした成果の一つとして識字率の上昇と共に女子教育の飛躍的な拡充が挙げられる。
それは、就学率の上昇と高学歴化として表れ、特に農村部に顕著である。このことは、イスラム社会主義による公共政策の普遍化によって都市と農村との格差が是正されると同時に、男女分離政策が、逆に地方の信心深い人々の女子就学への抵抗感を払拭したことによるもので、社会の伝統的な文化に沿う政策が、大方の見方とは逆に社会変革の進行をスムーズに促していったことが見て取れる。
例えば、辺境州も含めた女子の小学校総在籍率が革命前(1975年)の71%から現在(2007年)の96%以上となり、更に中学から大学準備過程を含めた中等教育では、女子の総在籍率は 33%(1976年)から76%に飛躍的に向上している。そのため、現在の高校在学生全体における女子比率は都市部で49.4、農村部で45.1%となっている。
イランでの公立大学への進学は、年一回のコンクールと呼ばれる大学統一試験に合格しなければならないが、全合格者に占める女子比率は年々上昇し、1998年には遂に男子を抜いて52%に達し、現在では高等教育における大学生の男女比率は、医学、人文、基礎科学、芸術の各専攻とも完全に女性優位となっている。
世界各国の高等教育全般において女子が男子を凌駕する国はイランの他には無く、これなどはイスラム革命の実像を判断するうえで重要な視点を提供してくれている。既に革命後の僅か4年間で女子の高等教育への進学率が8倍に達したことが指摘されていたが、今日、大学生の女性比率は62%を超え、男子の倍近くにのぼっている。
大学進学者は、コンクールにおける成績順に希望大学・学部へ振り分けられるようになっており、理数系への希望は毎年定員の10倍を超えて成績優秀者が集中する傾向にあるが、その中で女子の占める比率がさらに高くなる結果、医学専攻では学部で実に70%以上を女子が占めるに至っている。(ちなみに、短大過程73%、修士51%、博士44%。2002年度公立大学・高等教育機関の在籍者数統計による。)
これは、教育機会の保障を基礎に、高等教育に代表される全教育課程での教育内容(後述)と評価の完全な男女平等の実現の結果といえるが、イラン・イスラム共和国における女性の就学に対する意識の高さと勤勉さも反映された形となっている。
高等専門職の女性比率の顕著な高まりは、例えば国民医療の公営化による普及と男女分離政策が、医師をはじめとする医療分野での女性の進出を促し、女性専門職の増大を後押ししていることから、制度的にも高い整合性を保っている。それは、女性患者の診療は女性医師が行う必要があり、逆に男性患者の診療は男女どちらの医師でも構わないとされるために、医療分野においては特に女性の方が男性よりも就業の自由度が高いことも影響している。
教育分野においても同様のことがいえ、女性の全労働人口の実に3分の1が専門職に就いており、そのうちの8割以上が教育職にある。また既に大学教員の4人に一人が女性であり、公官庁での女性管理職の採用も行われいる。近年拡充されてきた女性向けの年金制度や育児休暇制度のおかげで社会参加と就労がさらに進み、女性からの離婚を申し立てる権利も拡大している。
先進諸国も含め女性労働力は、概して低賃金、非熟練職に集中する傾向があるが、このことは革命を経たイランには当て嵌まらず、女性の高学歴化に伴い、都市・農村共に結婚年齢が上昇し共稼ぎ世帯も増えていく中で、女性の地位が確実に向上してきたことが、このような労働統計にも表れている。
周知のように、イランでは中等教育までは男女別学が基本だが、教育カリキュラムは、中等教育過程での男子を対象に防衛技術を教える「防衛準備科」を除き、教育の全過程を通して完全に男女同一である。一般的にいう技術・家庭科などの区別も無いため、男子は料理や裁縫も、女子は木工や機械工学も等しく学習することになっている。
また近年、テヘランの大規模スポーツセンターなど公共施設の充実が目覚しいが、これらの利用にも時間帯(女性が昼間、男性が夜間のみの利用)と、施設運営者・インストラクターらに男女各々の対応区分(職員数も男女半々)がある他は、男女間の違いは存在しない。
女性が対外的に公衆の前では体と髪を覆うへジャーブを着用する義務があることは、革命後のイランではそのまま女性の地位の低さを意味せず、むしろ外見によらぬ知的な社会参加を促す契機となってきた。
さらにイスラム社会主義政策による医療や教育分野の公営化をベースに、それに携わる女性専門職の広範な養成を通して、革命前や諸外国と比べて女性の社会的役割は確実に質的な向上を果たしてきている。特に未だ女性の地位の低い他のイスラム諸国とは比較にはならない。
人に対する抑圧は教育にこそ表れるという一般法則に照らすなら、イラン・イスラム革命が女性の抑圧を進めたというのは明らかに事実と異なる。さらに、不平等こそが人権の破壊を促進するという原則に則るなら、政治的腐敗を一掃し、国民福祉の拡充を通して平等を実現してきたイスラム革命は、人権抑圧の首謀者でないことも事実である。
注:この項では、比較のため前項の誤謬を修正せずに加筆のみを行った。
1978年1月、フランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者のひとりであったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地ゴムで暴動が発生、宗教学生と警官隊が衝突した。この事件以降、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
皇帝側は宗教界と事態の収拾をはかったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・イスラム国家の樹立が叫ばれるに至った。11月、収拾策に行き詰まった皇帝は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に登用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化をはかったが、宗教界や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化をとどめることができず、反皇帝側の政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。
バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化をはかったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握した。
4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。
革命の国外に対する影響 [編集]
イスラム共和国体制は、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパフラヴィー朝を倒したことや、露骨な反欧米主義とイスラム至上主義を掲げたことから、アメリカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月にはアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となる。またパフラヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1)戦車やアメリカのキッド級ミサイル駆逐艦など多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。
一方、周辺のアラブ諸国にとっては、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラブ諸国からも孤立することになった。
1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。また、戦争は国際化し、ニカラグアの内戦(コントラ戦争)から波及したイラン・コントラ事件など、国際的なスキャンダルを巻き起こした。
また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火することを恐れたために長期化したとも言われる。
革命後のイラン [編集]
革命後は『イスラームの良き価値観』に基づいた支配を行う『ユートピア』としてのイスラム国家の建設が政権によって推進されることとなり、シャリーアが国法となった。このためイスラーム以外の宗教の信者はすべて二級市民(ズィンミーに相当)となり、バハーイー教徒のように信仰を禁じられる人々もいた。女性はヒジャブの着用を強制され、違反した場合逮捕されたり公職から追放された。イランにおける宗教的自由や女性の人権は大きく後退したとされる。そのため宗教的弱者や少なからぬ女性にとって革命後のイランはかつての全体主義社会同様の『ディストピア』的様相を帯びた。
シャリーアに基づき女性の結婚最低年齢は9歳となったため、女児への児童性的虐待は、それが正当な婚姻を経た後なら合法(ハラール)となる可能性さえ生まれた。
また革命にはつき物であるが、旧体制の支持者と断罪された人々が多く処刑された。その中には王党派のみならず、自由主義者やマルクス主義者なども存在していた。
革命後の教育と女性の地位の実像 [編集]
革命当時、ホメイニ師の指示で女性だけの革命防衛隊が組織されたことが知られるが、政府はそれ以降も一貫して人口の半数を構成する女性の革命体制への積極的な参加を促してきており、特に女性教育を重視して学校の増設や女性教育者の養成に取組んできた。この結果、革命がもたらした成果の一つとして識字率の上昇と共に女子教育の飛躍的な拡充が挙げられる。
それは、就学率の上昇と高学歴化として表れ、特に農村部に顕著である。このことは、イスラム社会主義による公共政策の普遍化によって都市と農村との格差が是正されると同時に、男女分離政策が、逆に地方の信心深い人々の女子就学への抵抗感を払拭したことによるもので、社会の伝統的な文化に沿う政策が、大方の見方とは逆に社会変革の進行をスムーズに促していったことが見て取れる。
例えば、辺境州も含めた女子の小学校総在籍率が革命前(1975年)の71%から現在(2007年)の96%以上となり、更に中学から大学準備過程を含めた中等教育では、女子の総在籍率は 33%(1976年)から76%に飛躍的に向上している。そのため、現在の高校在学生全体における女子比率は都市部で49.4、農村部で45.1%となっている。
イランでの公立大学への進学は、年一回のコンクールと呼ばれる大学統一試験に合格しなければならないが、全合格者に占める女子比率は年々上昇し、1998年には遂に男子を抜いて52%に達し、現在では高等教育における大学生の男女比率は、医学、人文、基礎科学、芸術の各専攻とも完全に女性優位となっている。
世界各国の高等教育全般において女子が男子を凌駕する国はイランの他には無く、これなどはイスラム革命の実像を判断するうえで重要な視点を提供してくれている。既に革命後の僅か4年間で女子の高等教育への進学率が8倍に達したことが指摘されていたが、今日、大学生の女性比率は62%を超え、男子の倍近くにのぼっている。
大学進学者は、コンクールにおける成績順に希望大学・学部へ振り分けられるようになっており、理数系への希望は毎年定員の10倍を超えて成績優秀者が集中する傾向にあるが、その中で女子の占める比率がさらに高くなる結果、医学専攻では学部で実に70%以上を女子が占めるに至っている。(ちなみに、短大過程73%、修士51%、博士44%。2002年度公立大学・高等教育機関の在籍者数統計による。)
これは、教育機会の保障を基礎に、高等教育に代表される全教育課程での教育内容(後述)と評価の完全な男女平等の実現の結果といえるが、イラン・イスラム共和国における女性の就学に対する意識の高さと勤勉さも反映された形となっている。
高等専門職の女性比率の顕著な高まりは、例えば国民医療の公営化による普及と男女分離政策が、医師をはじめとする医療分野での女性の進出を促し、女性専門職の増大を後押ししていることから、制度的にも高い整合性を保っている。それは、女性患者の診療は女性医師が行う必要があり、逆に男性患者の診療は男女どちらの医師でも構わないとされるために、医療分野においては特に女性の方が男性よりも就業の自由度が高いことも影響している。
教育分野においても同様のことがいえ、女性の全労働人口の実に3分の1が専門職に就いており、そのうちの8割以上が教育職にある。また既に大学教員の4人に一人が女性であり、公官庁での女性管理職の採用も行われいる。近年拡充されてきた女性向けの年金制度や育児休暇制度のおかげで社会参加と就労がさらに進み、女性からの離婚を申し立てる権利も拡大している。
先進諸国も含め女性労働力は、概して低賃金、非熟練職に集中する傾向があるが、このことは革命を経たイランには当て嵌まらず、女性の高学歴化に伴い、都市・農村共に結婚年齢が上昇し共稼ぎ世帯も増えていく中で、女性の地位が確実に向上してきたことが、このような労働統計にも表れている。
周知のように、イランでは中等教育までは男女別学が基本だが、教育カリキュラムは、中等教育過程での男子を対象に防衛技術を教える「防衛準備科」を除き、教育の全過程を通して完全に男女同一である。一般的にいう技術・家庭科などの区別も無いため、男子は料理や裁縫も、女子は木工や機械工学も等しく学習することになっている。
また近年、テヘランの大規模スポーツセンターなど公共施設の充実が目覚しいが、これらの利用にも時間帯(女性が昼間、男性が夜間のみの利用)と、施設運営者・インストラクターらに男女各々の対応区分(職員数も男女半々)がある他は、男女間の違いは存在しない。
女性が対外的に公衆の前では体と髪を覆うへジャーブを着用する義務があることは、革命後のイランではそのまま女性の地位の低さを意味せず、むしろ外見によらぬ知的な社会参加を促す契機となってきた。
さらにイスラム社会主義政策による医療や教育分野の公営化をベースに、それに携わる女性専門職の広範な養成を通して、革命前や諸外国と比べて女性の社会的役割は確実に質的な向上を果たしてきている。特に未だ女性の地位の低い他のイスラム諸国とは比較にはならない。
人に対する抑圧は教育にこそ表れるという一般法則に照らすなら、イラン・イスラム革命が女性の抑圧を進めたというのは明らかに事実と異なる。さらに、不平等こそが人権の破壊を促進するという原則に則るなら、政治的腐敗を一掃し、国民福祉の拡充を通して平等を実現してきたイスラム革命は、人権抑圧の首謀者でないことも事実である。
注:この項では、比較のため前項の誤謬を修正せずに加筆のみを行った。
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