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中東観察

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2009/06/25
13:50
オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)のあゆみ 戦争とプロパガンダ 2より

オスロ合意とは1993年9月、 イスラエルがはじめてパレスチナ解放機構(PLO)をパレスチナを代表する交渉当事者と認めて和平にむけた枠組みを直接交渉で取り決めたもので、①イスラ エルとPLOの相互承認の交換書簡と、②イスラエルが占領する地域に5年間のパレスチナ暫定自治期間をもうけ、そのあいだに最終的な返還条件を決める交渉 を行なうという「暫定自治の取り決めについての原則宣言」からなる。

交換書簡では、アラファートPLO議長がイスラエルの生存権を認め、テロ戦術を放棄して平和的な紛争解決をめざすことを表明し、ラビン・イスラエル首相はPLOをパレスチナ人の正式代表として認め、交渉を開始する意思を表明した。「原則宣言」では「5年を超えない移行期間のあいだに、ヨルダン川西岸地区とガザに暫定自治政府をつくり、国連安保理決議242および338(イスラエルの占領地からの全面撤退を要求)に基づく恒久解決に至る」とうたっている。

具体的なスケジュールとしては、 ①イスラエル軍は暫時撤退し、②西岸・ガザでパレスチナ自治政府の首長と評議会(議会)議員を選出、③暫定自治開始から3年以内にパレスチナの将来にかか わる重要問題(エルサレムの帰属、難民の帰還権、入植地の将来、国境など)を解決する最終地位交渉を開始し、自治開始後5年をめどに両者が歴史的和解を達成する、とされていた。

しかし1995.11の ラビン暗殺でその実施は危うくなった。そもそも、オスロ合意はイスラエル労働党が米民主党とともに進めたもので、パレスチナ人との共存がうたい文句であっ た(それが真に共存をめざすものであったかどうかは、また別の問題である)。しかしイスラエルの右派は占領地も含め歴史的にパレスチナと呼ばれた地域のす べてを「イスラエルの土地」とみなしており、占領地(48年の国連分割案よりは狭いものの、現在ではパレスチナ人の土地として国際社会に承認されている西 岸地区とガザ)からもパレスチナ人を追放することを公然と主張している

96年の総選挙で右派リクードが労働党を破りネタニヤフ内閣が成立するとオスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。不毛な3年間を経て995月 にエフード・バラクの率いる労働党が政権に復帰すると、滞っていた和平交渉をふたたび活性化させようという動きが始まった(シャルム・エッシェイク合 意)。78年にエジプトとの単独講和を結んだベギンやオスロ合意を結んだラビンの後継者をもって任ずるバラクは、パレスチナ人との最終和平合意を結ぼうと いう野心を持っていたが、彼が提案した内容はパレスチナが真に国家として独立するにはほど遠く、アラファート自治政府の承認をとりつけることはできなかっ た。

そうするうちに、イスラエルの抑圧的な占領政策の加速によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、解決の糸口が見えない占領状態の継続にパレスチナ住民の不満が募っていった。2000年9月のアル=アクサ・インティファーダと翌年2月のシャロン政権の誕生によって、オスロ和平プロセスは完全に崩壊した。

 

ここに至るまでの諸合意を以下に簡単に整理しておく。

 

1994.5「ガザ・エリコ先行自治協定」(カイロ合意)により、西岸地区のエリコとガザ地区からイスラエル軍が撤退し、先行自治が開始された。アラファートPLO議長がガザに入り、パレスチナ自治政府が発足。

 

1994.10 ヨルダンがイスラエルと講和を結ぶ)

 

1995.9 暫定自治拡大協定(タバ合意)  地図 

ヘブロンを除くヨルダン川西岸のアラブ人居住区全域からのイスラエル軍の撤退と、一年以内の最終地位交渉の開始、暫定自治政府の選挙実施などを明記。この結果、パレスチナ自治政府の完全自治(エリアA)が西岸地区の7つの都市に拡大。それ以外の地域は、行政はパレスチナ側が行なうが治安はイスラエルと共同で管理する不完全自治区(エリアB)と、引き続きイスラエルが行政も治安も支配する地域(C地区)に分けられた。パレスチナ自治区の占領地全体に対する割合は、ガザ地区では80%、西岸地区ではエリアA2.0%)とエリアB26.0%)、全体では28%で、暫時拡大することになっていた。(数字の出所は中東和平財団)

 

1996.1 パレスチナ立法評議会(議会)と自治政府の首長(プレジデント)選挙がおこなわれ、自治政府の長にはヤーセル・アラファートが選出された。

 

1997.1ヘブロン協定   地図 

ヘブロンが自治区に追加された。 同市のパレスチナ系住民のみが住む地域は完全自治区域(H1)となったが、ユダヤ系とパレスチナ系が住む地域はイスラエルの支配地区(H2)におかれるという、事実上の分割承認。

 

1998.11 ワイ合意  地図

ネタニヤフ首相とアラファートの最終地位交渉に向けた合意。イスラエル軍の西岸地区からの追加撤退などを定めたが、後にネタニヤフによって破棄された。西岸地区のパレスチナ自治区は不完全自治も含めて占領地の30%(エリアA 9.1%、エリアB 20.9%)に拡大。

 

1999.9シャルム・エッシェイク合意  地図

和平交渉の再活性化をめざしてエジプトのシャルム・エッシェイクで交わされた合意。20009月までに最終地位合意を達成することを目標にワイ合意の実施スケジュールを定めたが、結局は実現しなかった。西岸地区のパレスチナ自治区は、不完全自治もふくめて占領地の59%(エリアA 17.2%、エリアB23.8%)に拡大した。

 

2000.7 キャンプ・デーヴィッド交渉

任期終了直前のクリントン大統領 が最後の調停を試みたが、最終地位の合意には至らなかった。この会議については、バラク・イスラエル首相が大幅な譲歩を提案したにもかかわらずアラファー ト議長が拒絶したかのように喧伝されたが、実際にはとてもパレスチナ側の受け入れられるような条件ではなかった。冒頭に掲げた地図(中東和平財団によるも のだが、正式に発表された地図は存在しない)は、この会議の直前にバラク首相が提案した最終的なイスラエルの撤退案であるが、一見すれば自明のように自立 国家が形成できるようなものではなく、「占領地の全面返還」を要求する国連決議とはかけはなれたものである。

 

以上のような経緯で、現実にパレスチナ人が完全自治を獲得しているのは西岸地区の17%、ガザの80%に過ぎず、最終地位交渉の実施も引き延ばされたままである。その間イスラエルは入植の拡大を継続したており、ピース・ナウの調査では、93年からの8年間で、占領地におけるユダヤ人入植戸数は62%増加した。20024月初めには、これらの自治区もイスラエル軍によって再占領された。

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2009/06/25
13:48
オスロ合意

調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長。中央は仲介したビル・クリントン米大統領


オスロ合意
(オスロごうい、英語: Oslo Accordsアラビア語: اتفاقية أوسلو‎、ヘブライ語: הסכמי אוסלו‎)は、1993年にイスラエルパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定。正式には「暫定自治政府原則の宣言(ざんていじちせいふげんそくのせんげん、英語: Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements」と呼称されている。

オスロ合意および後の協定で明文化されたイスラエルとアラブ国家の関係正常化の期待は未だ解決されていない。

2006年7月の、イスラエルによるガザ地区レバノンへの侵攻により、事実上崩壊したとアラブ連盟では見做されている。

対話から合意に至るまでの間、両者との関係が良好なノルウェー政府がこの成立に尽力した。ホルスト外相ら、政府関係者による交渉は、オスロあるいはその周辺で行われ、1993年8月20日の合意に至るまで内密に行われていた。

 


2009/06/24
18:11
外務省ホームページより。Vol.15 「対立」を越えて ~イスラエル・パレスチナの信頼関係を構築する

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol15/index.html

わかる!国際情勢

「対立」を越えて
~イスラエル・パレスチナの信頼関係を構築する

2008年9月25日、麻生総理の国連総会におけるスピーチでも言及された「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘」事業。この事業はアラブ首長国連邦の高 級紙「ガルフ・ニュース」でも好意的に取りあげられました。中東情勢と包括的な和平構築に対する日本の取組を解説します。

「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘」事業とは
2008年7月29日~8月4日まで、「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘(へい)」プ ログラムにより、イスラエルとパレスチナの青年10名が日本を訪れ、共に各地を視察するとともに議論を行いました。将来を期待されるイスラエルとパレスチ ナの各界のリーダーを日本に招へいするというこの事業は、1997年に開始され、今回で11回目を数えます。これまでに両国から150名以上もの人々を招 待しています。日本はなぜこのような事業を行っているのでしょうか。

現地ではまさに「会話が成り立たない」
長く続くイスラエルパレスチナの 紛争。このため、現地では、双方の不信感が根強く、単純な意思疎通をすることさえもできなくなっている、と現地を知る中東専門家は言います。彼らの対立を 解くには、まず、それぞれの主義主張は異なるものの、お互いに他者の言うことを冷静に聴く態度を持ち、会話ができるということを理解し合うことが必要で す。そして、それを体験できる機会を提供するのは、中立の立場で双方に接することのできる日本ならではの役割だと考えています。この事業は、日本で出会っ たイスラエル人とパレスチナ人が、数日間行動を共にし議論することで、互いに会話ができる相手であるということを知ってもらうことから始まります。

ひとつ屋根の下で
「平成20年度イスラエル・パレスチナ合同招聘」参加者日 本滞在中、一行は、国会や秋葉原、京都、広島などの名所を訪れたり、着付けなどの体験をしますが、日程には様々な工夫が施されています。例えば今年は、日 本旅館の大部屋に寝泊りしてもらい、イスラエル人・パレスチナ人がまさに“ひとつ屋根の下”で過ごす、という「仕掛け」を設けました。また、別の年には、 イスラエル人とパレスチナ人をペアにして、日本人家庭でのホームステイをアレンジしたこともありました。







信頼~寝食を共にした訪日の終わりに見えてくるもの
そ して、訪日プログラムの終わりにお互いにしっかり向き合うことができるようになれば「成功」です。彼らが自国に戻って各界で活躍するようになった時、同じ 経験を持つ彼らが双方の原動力となって、両者が建設的かつ前向きな話し合いを行える関係に発展するように、という未来への効果を日本は狙っています。実際 に最終日の意見交換会では、「個人レベルで親交を深めることができた」「日本とイスラエル、日本とパレスチナ両者に共通する習慣・文化を実際に見ることが でき、非常に有益であった」「原爆の悲惨さを目の当たりにしたことで、平和の大切さを改めて痛感した」「被爆者の方の『アメリカは憎くない。憎いのは原爆 だ。』という言葉にはショックを受けた」などの感想が寄せられています。

 

ユダヤ人迫害とイスラエル建国による中東戦争
では、そもそも中東戦争とはどのようなものなのでしょうか。イスラエルパレスチナ間 の対立は、民族、宗教、政治、経済など、色々な要因が絡み合った複雑な問題です。19世紀末、国家を持たなかったユダヤ人が、世界各地で起こった迫害から 逃れ、イスラエルの地(パレスチナ)に祖国を作りたいという運動(シオニズム)を起こします。そして、英国によるパレスチナ委任統治の終了した1948 年、イスラエルが独立を宣言。これに対して周辺のアラブ諸国が強く反発し、第一次中東戦争が起こりました。その後も中東戦争は断続的に勃発し、イスラエル のユダヤ人と、それまでこの周辺に暮らしていたパレスチナ人を含むアラブ人との対立は、石油危機など世界中に大きな影響を与え、多くのパレスチナ難民を発 生させました。

中東和平関連年表

オスロ合意
イ スラエルの独立宣言以降、紛争が続きましたが、1990年代に入ると徐々に和平への機運が高まってきます。1993年には、イスラエル政府とパレスチナ解 放機構(PLO)との間で、オスロ合意が成立。イスラエルとパレスチナは2つの国家として共存していく理念(二国家共存)を、国際社会と共有することにな りました。その後1990年代を通し、オスロ合意に基づいて、最終的な和平に向けた話し合いが続けられました。


キャンプ・デービットにおける調停の不調
和平への努力が続けられる中でもパレスチナ過激派によるテロは続き、イスラエルにおいても強硬派の政策がとられると和平交渉は停滞します。しかし、99年 にイスラエルが再び労働党のバラック政権となり、2000年に米国仲介のもと、米国のキャンプ・デービットにおいて、アラファトPLO議長とバラック・イ スラエル首相の間で話し合いが持たれます。オスロ合意に基づき最終和平に向けた未解決部分の調整が行われましたが、東エルサレムの帰属問題、パレスチナ難 民の帰還先などについて合意が得られず、和平交渉は膠着状態となってしまいます。


第2次インティファーダ
こ うした中、イスラエルのシャロン・リクード党党首がイスラム教徒の聖地でもあるエルサレムの「神殿の丘」を訪問。そしてイスラエル・パレスチナ間で大規模 な衝突(第二次インティファーダ)が起こります。さらに翌2001年に起こった9.11米国同時多発テロの影響も受け、イスラエル・パレスチナ双方の信頼 関係は、再び崩れてしまいます。

現在のパレスチナ情勢
イスラエル・パレスチナ間のみならず、パレスチナ内部の対立も、和平を妨げる大きな要因となっています。2006年のパレスチナ立法議会選挙で、イスラエルを承認せず、武力闘争を標榜するイスラム過激派組織のハマスが圧勝します。ハマスと、これまで政権を担っていたアッバース大統領率 いるファタハは連立組閣を目指しますが、最終的に非ハマス系閣僚を多数含む「挙国一致内閣」が成立しました。しかし、ファタハとハマスの対立は激化し、 2007年、ハマスはガザ地区を占拠します。武力をもってガザ地区を制圧したハマスに対して、国際社会からの非難が集中します。以後イスラエルとハマス、 およびハマスとファタハの衝突は続き、イスラエル・パレスチナ双方の一般市民の生命を脅かす、深刻な事態へと発展しています。

中東和平関連地図
 

両当事者から信頼される日本の役割
中東和平問題は、 エネルギー問題や平和構築などの観点から、日本の外交にとって重要な課題です。日本は、国際社会と連携しながらも、中東においてこれまで中立の立場をとっ てきており、両当事者から信頼されるという特長を活かして独自の取組を行っています。その取組とは、政治的働きかけ、信頼醸成、対パレスチナ支援の3つの 柱であり、その総体として「平和と繁栄の回廊」構想が あります。政治的な働きかけとしては、イスラエル・パレスチナ双方に対し、首脳等の高いレベルで、一貫して和平交渉を支持し支援するという立場を明らかに し、和平に向けた双方の努力を促しています。信頼醸成としては、前述の合同青年招聘事業などにより、地道な、しかし着実な支援をしています。

対パレスチナ支援:対話を促すパレスチナの経済的自立
3 つ目の柱はパレスチナ支援です。経済的に豊かなイスラエルに対し、パレスチナ自治区は貧困率が高く、経済が十分に発展しているとは言えません。パレスチナ 人に対する経済的支援は、将来のパレスチナ国家としての自立を促し、対立の解消に役立つと日本は考えています。この考えに基づき、日本は93年のオスロ合 意以降、約10億ドルにのぼる支援を実施しています。

我が国の中東和平に対する取組~3つの柱と「平和と繁栄の回廊」構想~


地域を巻き込んだ「平和と繁栄の回廊」構想
さ らに、これらの取組を総合するものとして、「平和と繁栄の回廊」構想があります。これは、聖書の時代から肥沃な大地として知られていたパレスチナ自治区の ヨルダン川西岸に着目し、この地に農産業団地を建設するという構想です。これにより西岸地域からヨルダンを通り、サウジアラビアやドバイなど経済的に豊か な湾岸諸国や欧米諸国、可能であれば日本にまで農産品を輸出する物流インフラを、周辺国の協力も得て構築することで、パレスチナ経済を発展させ、また域内 の信頼醸成に役立てることを狙いとしています。周辺地域を巻き込んで行うこの構想では、日本の無償資金協力や技術協力を通して農産加工と物流拠点整備のた めの調査が間もなく完了します。現在、日本、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン4者間の協力により、2009年の早い時期に農産業団地の基礎インフラ整備 に着手できるよう、準備を進めています。周辺地域を含め、相互依存関係を深めながら平和に共存共栄する、そのための支援を日本は惜しまない覚悟です。



とのこと。さすがに国のホームページ。しっかりと作ってある。また説明も簡易で難しくない。誰にでも理解しやすい文章で分け隔てをしていない。それ以上にしっかりとできる範囲での活動をしているのだなぁ
という感想を持った。

方向性として、そろそろ苦手な経済を学ぼうと思う。



 


 





 

2009/06/24
17:59
外務省ホームページより。Vol.15 「対立」を越えて ~イスラエル・パレスチナの信頼関係を構築する

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol15/index.html

わかる!国際情勢

「対立」を越えて
~イスラエル・パレスチナの信頼関係を構築する
アフガニスタンでは現在、急速に治安情勢が不安定化しています。これに対し、日本をはじめとする国際社会は、治安改善や復興開発など様々な分野でアフガニ スタンへの支援を強化しています。なぜアフガニスタンが「テロの温床」と言われるようになったのか、そして、なぜ国際社会がアフガニスタン支援に取り組ん でいるのか、アフガニスタンの歴史、特に2001年から今までの動きをもとに考えます。

「文明の十字路」と呼ばれたアフガニスタン
アフガニスタンは 中央アジアに位置し、かつてユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶ「文明の十字路」と呼ばれた平和な地域でした。歴史的には、ペルシア、インド、トル コなど影響力のある文明に囲まれ、現在でも国内にはパシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人など様々な民族が住んでいます。昔から農業が盛ん で、小麦や米のほかに、サフラン、ザクロ、レーズンを生産してきました。

アフガニスタン


国家の歩み~王朝成立からソ連の軍事介入
長 い間続いた他民族支配の後、1747年にドゥラーニー王朝が成立し、アフガニスタンは国として歩みはじめます。1880年にイギリスの保護領となります が、アフガニスタンはインドほど経済的価値が高くはなかったため、不凍港を求めて南下するロシアとインドを支配するイギリスとの緩衝地帯となりました。 1919年にはイギリスからの独立を達成しますが、平和な時代はあまり長続きせず、73年に王制が崩壊して共和制に移行、78年には軍事クーデターで人民 民主党政権が成立。翌年、ソ連の軍事介入をきっかけに、アフガニスタン情勢は不安定さを増していきます

ソ連への抵抗とタリバーン勢力の台頭
ソ 連の侵攻に対抗する人々はイスラムの旗の下に結束し、各地でゲリラ戦を展開しました。1989年にはソ連軍を撤退に追い込みますが、国内は各ゲリラ勢力の 主導権争いにより内戦状態に陥ってしまいます。そこに現れたのが、イスラムへの回帰を訴える「タリバーン」でした。タリバーンは、アフガニスタンとパキス タン国境付近に住むパシュトゥーン人を中心に台頭してきた勢力で、厳しいイスラムの戒律により、社会秩序を急速に回復させました。生活の安定を取り戻した 人々によって支持されたタリバーンは、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年頃までには国土の9割を支配するようになりました。

ソ連への抵抗とタリバーン勢力の台頭
ソ 連の侵攻に対抗する人々はイスラムの旗の下に結束し、各地でゲリラ戦を展開しました。1989年にはソ連軍を撤退に追い込みますが、国内は各ゲリラ勢力の 主導権争いにより内戦状態に陥ってしまいます。そこに現れたのが、イスラムへの回帰を訴える「タリバーン」でした。タリバーンは、アフガニスタンとパキス タン国境付近に住むパシュトゥーン人を中心に台頭してきた勢力で、厳しいイスラムの戒律により、社会秩序を急速に回復させました。生活の安定を取り戻した 人々によって支持されたタリバーンは、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年頃までには国土の9割を支配するようになりました。

タリバーンと国際テロ組織「アル・カーイダ」
タ リバーン支配によって社会秩序が回復する一方で、女性の就学を禁じたり、映画、テレビ、音楽などの娯楽を禁止したりするなど、極端なイスラム原理主義が人 々の暮らしを抑圧するようになります。一方、タリバーンは、国際テロ組織「アル・カーイダ」を受け入れ、アフガニスタンにおける活動の自由を許すようにな りました。

 

9.11以降のアフガニスタン
タ リバーン政権の保護のもと、アル・カーイダはアフガニスタンを拠点に活動を活発化。2001年9月11日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルなどで 約3000人が犠牲となる同時多発テロを起こしました。翌10月、米国などの連合軍はアフガニスタンに対し武力を行使し、タリバーン政権は崩壊。アフガニ スタン各勢力の代表は、国連の呼びかけで和平プロセスに合意(ボン合意)し、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)を中心とする新たな国造りがはじまりました。

深刻な治安の不安定化
アフガニスタンでは近年、治安情勢が著しく不安定化しています。首都カブールを追われたタリバーンや反政府勢力によるテロが激化し、特にパキスタンとの国 境付近では深刻な状況となっています。2008年の民間人死者数は、米国同時多発テロ事件(9.11)が発生した2001年以降で最悪の2,118人(前 年比約40%増)にのぼり、外国兵の死者数も2001年以降最悪です。

アフガニスタン支援は「世界共通の課題」
こ のように、アフガニスタンがテロの温床になってしまった歴史をふまえ、日本をはじめとする国際社会は、積極的にアフガニスタンを支援してきました。それは アフガニスタンの不安定化は、テロの拡散という一国あるいは中東・中央アジア地域だけの問題ではなく、世界全体の問題として考えなければならない問題を生 むからです(テロとの闘い)。 9.11以降もバリ島(2002年10月)、ロンドン(2005年7月)、インド・ムンバイ(2008年11月)など世界中でテロ事件は発生しており、私 たちの生活を脅かしています。国際社会は、アル・カーイダ等の掃討を行う「不朽の自由作戦」(OEF)や、「国際治安支援部隊」(ISAF)などによる治 安面での支援活動に加え、人道・復興支援を実施してきています。

アフガニスタン復興に向けた日本の支援
日 本も、人道復興支援とテロ治安対策を「車の両輪」として、アフガニスタンの安定に向けて積極的に取り組んできました。アフガニスタン復興支援国際会議 (2002年~)では、総額20億ドル(米英に続き世界第3位の規模)の支援を約束。うち15億ドル以上が人道支援、民主化支援、治安状況改善、人材育 成、経済基盤整備などの分野ですでに実施されています。インド洋では引き続き、テロリストの海上移動を阻止する活動を行っている各国船艦に、補給支援活動を実施しています。

日本のアフガニスタン支援の実績
現地で活動する日本人
ジャララバードで稲作指導を行うJICA専門家ア フガニスタンでは、100人を超える日本人(日本大使館、国際協力機構(JICA)、NGOなど)が、農業開発などの各分野で支援活動を行っています。そ の中で、2008年8月には、NGOの伊藤和也氏が誘拐・殺害されるという許しがたい事件も起こりました。アフガニスタンの人々は、歴史的に従属関係のな い日本に好感を抱いており、現地で懸命に活動している日本人の姿は好意的に受け止められています。




地方支援の強化~チャングチャランPRTへの文民派遣
ア フガニスタンでは、治安が不安定なために人道復興支援活動にも支障が生じている地域がたくさんあります。このため、各国軍隊と文民による地方復興チーム (PRT)が各地で支援活動を展開しています。日本は2007年から外国が主導する8つのPRTと連携し、NGOや地方行政機関への無償資金協力を実施し てきました。2009年春以降には、リトアニア政府の協力要請に応じる形で、チャングチャランPRT(ゴール県)に日本人の文民を初めて派遣し、復興のた めの地域のニーズをきめ細かく調査する活動などを行っていきます。日本はこれまでの国際協力において、開発のために現地が必要とする支援を的確に把握する 能力を培っており、この力に期待が高まっています。

日本が連携しているPRTの展開状況


アフガニスタン人による国造りに向けて
国 際社会はアフガニスタンで、これまでに500万人を超える難民の帰還、年平均約10%のGDP成長率(2003~06年)、初等教育就学率の増加、予防接 種の普及、幹線道路の整備など、着実な支援を続けてきました。アフガニスタン政府も、麻薬撲滅や非合法武装集団の解体など、自国が取り組むべき課題をアフガニスタン・コンパクトとして表明しています。日本は、支援の効果や治安状況などを見極めたうえで、今後もアフガニスタンの自立に向けた取組を行っていきます。

 




 

 

 





2009/06/24
17:40
外務省ホームページより。

ここもおもしろい、上にわかり易い。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol32/index.html

わかる!国際情勢

アフガニスタンでは現在、急速に治安情勢が不安定化しています。これに対し、日本をはじめとする国際社会は、治安改善や復興開発など様々な分野でアフガニスタンへの支援を強化しています。なぜアフガニスタンが「テロの温床」と言われるようになったのか、そして、なぜ国際社会がアフガニスタン支援に取り組んでいるのか、アフガニスタンの歴史、特に2001年から今までの動きをもとに考えます。

■「文明の十字路」と呼ばれたアフガニスタン
アフガニスタンは中央アジアに位置し、かつてユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶ「文明の十字路」と呼ばれた平和な地域でした。歴史的には、ペルシア、インド、トルコなど影響力のある文明に囲まれ、現在でも国内にはパシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人など様々な民族が住んでいます。昔から農業が盛んで、小麦や米のほかに、サフラン、ザクロ、レーズンなどを生産してきました。アフガニスタン

■国家の歩み~王朝成立からソ連の軍事介入
長い間続いた他民族支配の後、1747年にドゥラーニー王朝が成立し、アフガニスタンは国として歩みはじめます。1880年にイギリスの保護領となりますが、アフガニスタンはインドほど経済的価値が高くはなかったため、不凍港を求めて南下するロシアとインドを支配するイギリスとの緩衝地帯となりました。 1919年にはイギリスからの独立を達成しますが、平和な時代はあまり長続きせず、73年に王制が崩壊して共和制に移行、78年には軍事クーデターで人民民主党政権が成立。翌年、ソ連の軍事介入をきっかけに、アフガニスタン情勢は不安定さを増していきます。

■ ソ連への抵抗とタリバーン勢力の台頭
ソ連の侵攻に対抗する人々はイスラムの旗の下に結束し、各地でゲリラ戦を展開しました。1989年にはソ連軍を撤退に追い込みますが、国内は各ゲリラ勢力の主導権争いにより内戦状態に陥ってしまいます。そこに現れたのが、イスラムへの回帰を訴える「タリバーン」でした。タリバーンは、アフガニスタンとパキスタン国境付近に住むパシュトゥーン人を中心に台頭してきた勢力で、厳しいイスラムの戒律により、社会秩序を急速に回復させました。生活の安定を取り戻した人々によって支持されたタリバーンは、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年頃までには国土の9割を支配するようになりました。

■タリバーンと国際テロ組織「アル・カーイダ」
タリバーン支配によって社会秩序が回復する一方で、女性の就学を禁じたり、映画、テレビ、音楽などの娯楽を禁止したりするなど、極端なイスラム原理主義が人々の暮らしを抑圧するようになります。一方、タリバーンは、国際テロ組織「アル・カーイダ」を受け入れ、アフガニスタンにおける活動の自由を許すようになりました。

■9.11以降のアフガニスタン
タリバーン政権の保護のもと、アル・カーイダはアフガニスタンを拠点に活動を活発化。2001年9月11日、米国ニューヨークの世界貿易センタービルなどで約3000人が犠牲となる同時多発テロを起こしました。翌10月、米国などの連合軍はアフガニスタンに対し武力を行使し、タリバーン政権は崩壊。アフガニスタン各勢力の代表は、国連の呼びかけで和平プロセスに合意(ボン合意)し、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)を中心とする新たな国造りがはじまりました。

■深刻な治安の不安定化
アフガニスタンでは近年、治安情勢が著しく不安定化しています。首都カブールを追われたタリバーンや反政府勢力によるテロが激化し、特にパキスタンとの国境付近では深刻な状況となっています。2008年の民間人死者数は、米国同時多発テロ事件(9.11)が発生した2001年以降で最悪の2,118人(前年比約40%増)にのぼり、外国兵の死者数も2001年以降最悪です。

■アフガニスタン支援は「世界共通の課題」
このように、アフガニスタンがテロの温床になってしまった歴史をふまえ、日本をはじめとする国際社会は、積極的にアフガニスタンを支援してきました。それはアフガニスタンの不安定化は、テロの拡散という一国あるいは中東・中央アジア地域だけの問題ではなく、世界全体の問題として考えなければならない問題を生むからです(テロとの闘い)。 9.11以降もバリ島(2002年10月)、ロンドン(2005年7月)、インド・ムンバイ(2008年11月)など世界中でテロ事件は発生しており、私たちの生活を脅かしています。国際社会は、アル・カーイダ等の掃討を行う「不朽の自由作戦」(OEF)や、「国際治安支援部隊」(ISAF)などによる治安面での支援活動に加え、人道・復興支援を実施してきています。

■アフガニスタン復興に向けた日本の支援
日本も、人道復興支援とテロ治安対策を「車の両輪」として、アフガニスタンの安定に向けて積極的に取り組んできました。アフガニスタン復興支援国際会議(2002年~)では、総額20億ドル(米英に続き世界第3位の規模)の支援を約束。うち15億ドル以上が人道支援、民主化支援、治安状況改善、人材育成、経済基盤整備などの分野ですでに実施されています。インド洋では引き続き、テロリストの海上移動を阻止する活動を行っている各国船艦に、補給支援活動を実施しています。日本のアフガニスタン支援の実績

■現地で活動する日本人
ジャララバードで稲作指導を行うJICA専門家アフガニスタンでは、100人を超える日本人(日本大使館、国際協力機構(JICA)、NGOなど)が、農業開発などの各分野で支援活動を行っています。その中で、2008年8月には、NGOの伊藤和也氏が誘拐・殺害されるという許しがたい事件も起こりました。アフガニスタンの人々は、歴史的に従属関係のない日本に好感を抱いており、現地で懸命に活動している日本人の姿は好意的に受け止められています。

■地方支援の強化~チャングチャランPRTへの文民派遣
アフガニスタンでは、治安が不安定なために人道復興支援活動にも支障が生じている地域がたくさんあります。このため、各国軍隊と文民による地方復興チーム(PRT)が各地で支援活動を展開しています。日本は2007年から外国が主導する8つのPRTと連携し、NGOや地方行政機関への無償資金協力を実施してきました。2009年春以降には、リトアニア政府の協力要請に応じる形で、チャングチャランPRT(ゴール県)に日本人の文民を初めて派遣し、復興のための地域のニーズをきめ細かく調査する活動などを行っていきます。日本はこれまでの国際協力において、開発のために現地が必要とする支援を的確に把握する能力を培っており、この力に期待が高まっています。日本が連携しているPRTの展開状況

■アフガニスタン人による国造りに向けて
国際社会はアフガニスタンで、これまでに500万人を超える難民の帰還、年平均約10%のGDP成長率(2003~06年)、初等教育就学率の増加、予防接種の普及、幹線道路の整備など、着実な支援を続けてきました。アフガニスタン政府も、麻薬撲滅や非合法武装集団の解体など、自国が取り組むべき課題をアフガニスタン・コンパクトとして表明しています。日本は、支援の効果や治安状況などを見極めたうえで、今後もアフガニスタンの自立に向けた取組を行っていきます。