2024/11/25 22:52 |
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2009/06/29 13:03 |
レバノン新首相のハリリ氏 ヒズボラ含む挙国一致内閣を目指す |
【カイロ=村上大介】レバノンのスレイマン大統領は27日、今月7日に行われた総選挙で勝利した与党連合を率いるサアド・ハリリ氏(39)=未来潮流党首=を首相に指名した。ハリリ氏は、親シリア派のイスラム教シーア派組織ヒズボラ(神の党)など野党連合を加えた挙国一致内閣の樹立を目指すと表明した。
サアド氏は2005年に爆殺されたラフィーク・ハリリ元首相の次男で、父親暗殺はシリアの仕業と主張している。事件後の総選挙で「反シリア連合」は勝利したが、その後の内閣は事実上、機能麻痺(まひ)が続き、昨年5月、与野党の武力衝突で80人以上が死亡する事態へと発展。カタールが仲介に入り、野党勢力に閣僚ポストの3分の1を与える妥協案で事態は収拾された。
しかし、野党が閣僚の3分の1を占めることは、野党が閣議決定を阻止する拒否権を握ることを意味し、ハリリ氏ら与党指導者は選挙前から「野党に拒否権は与えない」と繰り返し発言してきた。
これに対し、野党側は挙国一致内閣に参加する条件として、総選挙前と同じ閣僚数の割り当てを求めており、挙国一致内閣の組閣は難航が予想される。ハリリ氏は25日、ヒズボラ指導者のナスララ師と会談したが、協議継続で合意するに留まっている。
与党側にとっては、政府軍よりも強力なヒズボラの武装解除問題も重要な課題となっているが、ハリリ氏は「対話を通じて解決する必要がある」として、ヒズボラ側を刺激しないよう融和的な姿勢を示している。
サウジアラビアで 巨万の富を蓄積した父親の事業を引き継いだサアド氏は建設、不動産、金融、メディアなど中東でも有数の財閥総帥でもあり、個人資産は、世界金融危機で昨年 の33億ドルから急落したものの、2009年も14億ドルと推計されている。父親の暗殺を受けて、与党連合の中心的な指導者の1人として4年間活動してき たが、首相就任で政治家の資質を本格的に試されることになった。
2009/06/26 14:08 |
ラフィーク・ハリーリー |
ラフィーク・アル=ハリーリー(رفيق الحريري Rafīq al-Harīrī, ラフィク・ハリリ、1944年11月1日 - 2005年2月14日)は、レバノンの実業家、政治家。レバノン共和国の首相を三度に渡って務めたが、最後の首相退任の後に暗殺された。
ハリーリーはスンナ派に属するムスリム(イスラム教徒)の子としてサイダー(シドン)で生まれた。首都ベイルートの大学で学んだ後、レバノンを出国してサウジアラビアに移り、教師として働いたのち、当地の土木建設会社で働いた。その後1971年(1969年とも)に自ら建築会社「シコネスト」を設立、実業家として活動をはじめる。会社は原油価格上昇の影響で空前の建築景気に沸いた1970年代のサウジアラビアで急速に成長し、数年でハリーリーはサウジアラビア建築業界の有力者となった。1978年にはサウジ・オジェ社を設立、事業をアラブ諸国屈指の国際的建設会社に成長させた。1980年代には、『フォーブス』の富豪ランキング100位以内に入る世界有数の資産家になっていた。
サウジで実業家として成功したハリーリーはサウジ政府との関係を強めたとされる一方、レバノン内戦で荒廃した母国の復興事業にも携わった。1979年にはハリーリー基金を設立し、レバノン出身で国内のほかイギリス、フランス、アメリカなどに学ぶ多くの学生に奨学金を支給する事業を始めた。1982年にはオジェ・レバノン社を設立し、内戦で荒廃したベイルート、サイダーなどの都市の復興事業を実施、病院などを建設し、ハリーリーの名を冠した学校を設立した。
レバノン内戦が終結した1990年、ハリーリーはレバノンへ帰国し、再永住して内戦後の国家再建に参加した。1992年から1998年、2000年から2004年まで二度に渡ってスンナ派の政治家に割り当てられたポストである首相職を務めた。実業家として培った経験を生かして海外からの復興支援資金の獲得などに手腕を発揮した。一度目の首相在任中の1996年に行われた選挙では自らベイルート選挙区から出馬、最多得票で当選して国会議員となった。
ハリーリーは首相として宗派対立を克服してレバノン人の統一を訴え内戦復興に手腕を発揮したことを評価されるが、復興事業に自らの建設会社があたり 大きな利益をあげたことは批判の対象となることもある。また反対派は、ハリーリーはサウジアラビアからの回し者であると非難しているが、彼がサウジアラビ ア王家のサウード家と密接な関係を築いており、サウジ国籍も取得していることは確かな事実である。
2004年、内戦終結以来レバノンに駐留を続けるシリア軍の撤退問題をめぐって、親シリア色の強いエミール・ラフード大統領の任期を3年延長する憲法改正案がシリアからの圧力を受け議会で可決されたことを受けて起こった政局混乱の中で首相を辞任した。
2005年2月14日、ベイルート市内を通行中のハリーリーの自動車列は数百キロの爆薬による爆破テロ攻撃を受け、ハリーリーは10人以上の同行者とともに暗殺された。犯行声明を出したイスラム主義系 と見られる組織は、ハリーリーがサウジアラビアの体制を支援していたことを暗殺実行の理由としてあげた。一方、シリア軍撤退問題ではハリーリーは即時撤退 派に立ち、シリア軍の撤退を勧告する国連決議の実現に関わるなどして親シリア派と対立していたとされており、暗殺にシリアの関与を疑う観測もある。
前任: ラシド・アズ=ソル |
レバノンの首相 1992 – 1998 |
後任: セリム・アル=ホス |
前任: セリム・アル=ホス |
レバノンの首相 2000 – 2004 |
後任: オマール・カラミ |
2009/06/26 14:02 |
米が駐シリア大使を復活 イランの影響力低下を狙う |
6月25日19時10分配信 産経新聞
【ワシントン=有元隆志】ケリー米国務省報道官は24日の記者会見で、駐シリア大使を復帰させると発表した。米政府は2005年、ハリリ元レバノン首相 暗殺事件をめぐって、事件への関与を疑われたシリアとの関係が悪化したため、大使を召還した。今回の大使復帰は中東和平推進に加え、イランとの同盟関係に あるシリアとの関係改善を図ることで両国間にくさびを打ち込み、イランの中東での影響力の低下を図るねらいもあるとみられる。ケリー報道官は「(中東)地域におけるシリアの役割には懸念を持っているが、大使を復帰させるのも懸念事項に取り組む一つの方法だ」と説明した。シリア側には23日に決定を伝えた。
オバマ政権は大使復帰に先立って、ミッチェル中東特使、フェルトマン国務次官補代行(中東担当)をダマスカスに派遣するなど、徐々にシリアとの対話の機会を増やしてきた。
オバマ政権としてはシリアとの対話により、中断しているイスラエルとシリアの和平交渉を側面支援したいとの思惑もあるようだ。シリアは昨年末のイスラエ ル軍によるパレスチナ自治区ガザ地区侵攻を受け、それまでトルコを仲介に間接的に行ってきたイスラエルとの和平交渉を凍結した。
選挙戦で敵対国家との対話を掲げたオバマ大統領にとって、シリアは「テロ支援国家」に指定したままではあるが、核開発問題などを抱えるイランよりも、対話を深めるには障害の少ない相手ではある。
ただ、ブレア国家情報長官は3月に議会に提出した報告書で、「シリアとイランの軍事協力は(レバノンに拠点を置く親シリアのイスラム教シーア派組織)ヒ ズボラとの3者協力を含め、過去1年間増えている」と指摘、シリアとイランの軍事協力強化に懸念を示した。関係改善への道のりはなお険しいようだ。
2009/06/25 14:06 |
バグダッド |
[バグダッド 24日 ロイター] イラクのバグダッド東部にあるサドルシティーで24日、買い物客で混雑する市場を狙った爆弾攻撃があり、少なくとも72人が死亡、127人が負傷した。警察当局が明らかにした。
事件があった市場は、主に貧しいイスラム教シーア派信者が居住する地区。現場近くの商店主によると、爆弾はオートバイに連結された荷台に仕掛けられていたとみられる。
イラクでは今月末の駐留米軍の都市部撤退を前に、アルカイダなどスンニ派反政府グループによる爆弾事件が多発。20日には北部のキルクーク近郊で73人が死亡し、22日にも各地で発生した爆発により計27人が死亡している。
2009/06/25 14:03 |
テヘラン |
【カイロ=加藤賢治】イランの首都テヘラン中心部で24日午後、大統領選の無効を訴える改革派のムサビ元首相の支持者約200人が、抗議デモのため国会周辺に集まった。
しかし、治安部隊や体制側民兵組織バシジに強制排除された。AP通信は目撃者の話として、治安部隊が催涙弾や実弾の威嚇発砲でデモ参加者を追い払い、周辺には治安当局関係者数千人が配置されたと伝えた。
国営テレビは警官の大量動員により、「違法な集会」での暴力行為を阻止したと報じた。抗議デモは治安当局によって封じ込められている状況だ。
改革派の支持を集めるムサビ氏の妻ザハラ・ラフナバルドさんは同日、抗議活動は合法だと主張、抗議デモを弾圧する政府の姿勢を「街頭を戒厳令下に置くようなもの」と批判した。
AP通信によると、別の改革派メフディ・カルビ元国会議長の陣営は、25日に予定した、改革派支持者の追悼集会について、「当局の許可が得られなかった」として来週に延期した。