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中東観察

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2009/07/18
16:44
ガザ地区

ガザ地区
قطاع غزة
רצועת עזה
ガザ地区
中心都市・ガザ
位置
ガザ地区の位置
ガザ地区の位置
ガザ地区の位置
ガザ地区
行政
自治政府 パレスチナの旗 パレスチナ
地区 ガザ地区
中心都市 ガザ
最大都市 ガザ
地理
面積  
  総面積 360 km2
人口動態 (2005年7月現在)
人口 1,376,289 人
  人口密度 3,823 人/km2
その他
等時帯 世界標準時UTC+2
  夏時間 夏時間UTC+3
  
エレツ検問所
ガザ地区北端、イスラエルとの境界に位置する


ガザ地区
(ガザちく、アラビア語: قطاع غزة‎, Qita' Ghazzahヘブライ語: רצועת עזה‎, Retzuat 'Azza)は、パレスチナ自治政府行政区画である。中心都市はガザ

概要 

中東シナイ半島の北東部、東地中海に面して存在する帯状の地域で、パレスチナの一角に位置する。その名称は中心都市であるガザに由来している。約360 km2ほどの地域に150万人の人々が存在している。

現在ガザ地区に住む人々の3分の2は1948年の第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民およびその子孫である。この難民問題の解決策は現在も決定していない。

  • 乳児死亡率: 1000人の子供の誕生に対して21.3人の死亡 [2]
  • 出生率: 女性1人当たり4.7人 [3]
  • 人口増加率: 2.8% [4]:

 

歴史 

有史の登場から中世まで

ガザに人間の定住者がいたことが判明しているのは、紀元前6000年頃からである。紀元前3000年頃には、カナンの土地となり、さらに古代エジプトの支配下に入った。紀元前12世紀頃からは、海の民の一派であるペリシテ人(パレスチナの語源)が台頭した。その後、エジプト、アッシリアバビロニアマケドニア王国といった大国の争奪の舞台となり、紀元前64年にはローマ共和国の支配下となった。一時ローマ属国のユダヤの支配下となるが、その後ローマのユダヤ属州となった。『聖書』にも一部始終が触れられている。

中世には東ローマ帝国イスラム帝国エルサレム王国十字軍)、マムルーク朝がそれぞれ支配した。

 

大国による支配

1517年、オスマン帝国がマムルーク朝からガザを侵攻し占領した。ガザの住民は、ユダヤ人以外に多くはエジプトから逃れてきたもので、エジプトの文化が導入された。その後、第一次世界大戦までの400年間、ナポレオンフランス帝国)の一時的な占領を除き、オスマン帝国の支配下にあった。

第一次世界大戦以降、オスマン帝国を退けたイギリス国際連盟の承認の下、委任統治領として占領した。1929年に発生したパレスチナ人による暴動により、ユダヤ人の居住は禁止された。

 

エジプト・イスラエルによる支配 [編集]

1948年にイスラエルが独立し、周辺のアラブ諸国との第一次中東戦争が勃発しエジプトが占領した。1967年第三次中東戦争が勃発するとイスラエルにより占領され、イスラエル人の入植が進んだ。

パレスチナ自治政府

1993年の中東和平「オスロ合意」によって、ヨルダン川西岸地区の一部と共にパレスチナ自治政府の統治下に置かれた。治安はパレスチナ政府の治安部隊および市民警察軍によって維持されているが、現在も航空管制権と沿岸航行権はイスラエルが保持している。1998年ガザ国際空港が開港したが、2001年にイスラエルにより破壊された。

また、自治政府発足後も、入植者保護の為にイスラエル軍が駐留し、しばしば空襲空爆)を行っていた。2004年には、シャロン首相のアドバイザー、アルノン・サフェル (Arnon Soffer) は 「一発のミサイルには十発のミサイルをもって応じる。女性や子どもも死ぬだろう。女性たちが夫にもうカッサムロケット弾)を使わないように懇願するだろう。ガザに閉じこめられた250万人は、イスラム原理主義者に影響され、恐ろしい戦争になる。もし我々が生き残りたいならば、彼らを一日中、毎日、殺し、殺し、殺し続けなければならない」[1][2] と発言している。 2005年8月までにイスラエルは全てのユダヤ人入植地を撤去、9月には全陸軍部隊をガザ地区から撤退させた(婚約解消計画)。しかし、直後に過激派ハマースが選挙で勝利してパレスチナ自治政府の与党の座に就くと、イスラエルは態度を硬化した。 2006年6月末にはハマース系武装勢力に拉致されたイスラエル兵士1名を救出するため、戦車隊を含む陸軍が侵攻した。その後もイスラエルによる攻撃は断続的に続いている。また、検問所はイスラエルとエジプトの管理下にあり、ガザ地区は事実上イスラエルに封鎖されている。ガザ地区の住民は、原則として外に出ることはできない。イスラエル軍による空襲はその後も続き、2008年12月に大規模な空爆を伴う地上侵攻が開始され、多数の死傷者が出ている。(ガザ侵攻 (2009年)

ハマース政府

2007年6月11日、ハマースがガザ地区を武力で占拠し、パレスチナ解放機構主流派のファタハは「クーデター」と批判した。イスラエルは経済制裁を強化し、再び大規模な侵攻を計画しているといわれている。ファタハ支持者を中心に、ガザ地区から脱出しようとする動きも見られる。ただし、日本では「ガザ脱出へパレスチナ人殺到」[3]と報じられたが、実数では数百人程度で、ガザ地区の人口比としてはそれほどでもないという指摘もある。

2008年1月9日米国ブッシュ大統領のイスラエル・パレスチナ歴訪を機に、ハマースはイスラエルへのロケット弾攻撃を行った。イスラエルは報復にガザ地区を完全封鎖し、国連の援助車両さえ閉め出された。1月15日には、イスラエル軍がガザ市街地に侵攻。連日空襲を行っている。1月20日には封鎖により燃料が底を突き、ガザ地区唯一の発電所が操業を停止した。この結果、パレスチナの電力の1/3(イスラエル側の主張によれば、1/4)が供給されなくなった[4][5]

2008年1月23日、エジプトとの国境の町ラファハで検問所近くの壁が爆破され、ガザ住民がエジプト側に流入した[6]。その後も流入は続いており、不足している食糧や燃料を買い求めてガザへ戻る人々が列をなした。エジプト側は、当初は住民への同情もあり、非武装である限り容認した。1月25日に規制を始め、ハマースの同意を得た上で、2月3日に再封鎖された[7]。これは、買い出しの時間的猶予を与えたための措置である。

イスラエルは2月27日より、ハマース側のロケット弾により犠牲者が出たことへの報復として(ただし、ロケット弾攻撃自体は、イスラエルの空襲で、ハマース側に5人の犠牲者が出たことによる)、空襲を激化させ、さらに3月1日には地上部隊を侵攻させた。2月27日より、地上部隊を引き揚げた3月3日までの6日間だけで、パレスチナ側は110人以上、イスラエル側は3人の犠牲者が出ている。イスラエルのバラク国防相は3月2日、「ハマースは対価を払うことになる」と述べ、攻撃を続ける意向を示した。報道[8]によれば、空襲ではサッカーをしていた10~15歳の少年4人など、未成年者の犠牲者が相次いでおり、イスラエルの無差別攻撃も指摘されている。また、エジプトは負傷者の手当のため、一時的に検問所を開いて往来を認める措置を取った。

3月6日アムネスティ・インターナショナル英国支部など、英国8団体[9]によれば、人口150万のうち80%が食料援助に依存。2006年の63%より悪化し、失業率は40%に達するなど、人道状況が1967年の占領開始後で最悪になったとする報告書を発表した。

2009年1月4日、早朝イスラエル軍が侵攻開始。ガザ侵攻 (2009年)を参照

自治体 

資源 

1999年11月、パレスチナ自治政府はイギリスブリティッシュ・ガス社とガス田探索の契約を結び、2000年、ブリティッシュ・ガス社はガザ沖に天然ガスを発見した。契約では、ガス田の権利の6割をブリティッシュ・ガス社が、1割をパレスチナ自治政府が持つ[10]

しかし、イスラエルはガザ地区を実効支配したハマースに資金が流れることが我慢ならず、パレスチナのガス田を自国のガスパイプラインに結ぼうとブリティッシュ・ガスと交渉中である。ガス田利権が、ガザ侵攻の理由の一つという指摘もある。

 

交通 

イスラエル軍の攻撃によって破壊されたヤーセル・アラファト国際空港の建物

鉄道は整備されておらず、主要な交通機関はバスである。

外部との交通は、全てイスラエルとエジプトによって遮断されている。唯一の空港であるヤーセル・アラファト国際空港1998年開港したが、2001年イスラエル軍による攻撃で損壊し、現在運行を休止している。唯一の海であるガザ港は、イスラエルによって制海権が握られ、武器密輸を理由に漁船以外の利用を禁じられており、貿易や外国への出入国はできない。救急医療要員や援助物資を運ぼうとした小型船がガザ地区入りしようとしたが、イスラエルに追い返されている[11]

陸路は、エレツ、ラファ、カルニ、スファ、ナハル・オズなどの検問所を通してのみ通行可能で、他はイスラエルの築いた分離壁によって封鎖されてい る。ラファ検問所はエジプトの、それ以外はイスラエルの管理下にあり、外部との出入りを「治安上の理由」で厳しく規制しており、危篤状態の病人であっても 許可はなかなか下りないという[12]

 

脚注 

 

関連項目 

 

外部リンク 


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