2024/11/25 03:35 |
[PR] |
2009/06/09 23:57 |
イスラム教とは03 |
始原
西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカで迫害されたため、622年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。
ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。
スンナ派とシーア派の分離
ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していったことが最も大きな要因とされる。
しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。
イスラーム帝国の時代
8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけに殆ど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。
また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ、東アフリカ、インド、東南アジア、中央アジア、中国などへ旅立っていったので、しだいにイスラム教の布教範囲は広がっていった。
また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。
しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。
近代
近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。一方で順調にリベラル思想を身につけイスラムの改革を行う人々も多数出現し、イスラームは前近代にも増して多様な実態を持つことになった。
イスラームは先行したユダヤ教、キリスト教等から大きな影響を受け、またシーク教やバハーイー教の成立に大きな役割を果たした。
ユダヤ教との関係
ユダヤ教はアブラハム系3宗教の根本ともいえる宗教であり、イスラームに対しても強い影響を与えた。ムハンマド自身当初は自分の信仰をユダヤ教やキリスト教の延長線上にあるものとして捕らえており、独自の宗教を開くという意図はなかったとも言われている。イスラームの立法的側面は、ユダヤ教のそれを受け継ぎ簡素化させたものであるとされる。
クルアーンにはユダヤ教の指導者たちが預言者として記されており、旧約聖書の事跡をムハンマドなりに解釈したものも記されている。
ユダヤ教徒はイスラーム教徒にとって、同系の宗教を信ずる「啓典の民」であるという側面と、イスラームを受け入れず「劣った」教えにしがみつくおろかな者たちであるという側面が存在している。
キリスト教との関係
キリスト教もまたイスラームの成立に強い影響を与えた。ムハンマドはナザレのイエスを使徒であり預言者であるとしており、クルアーンにも新約聖書に由来するイエスの物語が記されている。また、ムハンマドに啓示を与えた天使ジブリールは、キリスト教においてマリアに受胎告知を行った大天使ガブリエルと同一と考えられている。ただしキリスト教主流派と違い、クルアーンではイエスは単なる人間であり、神の子ではないと明言されている。
キリスト教徒もまた、「啓典の民」としてクルアーンに記されている。
シーク教との関係
シーク教は中世から近世にかけてインドにおけるイスラーム神秘主義とヒンドゥー教のバクティ信仰の相互浸透の結果として生まれた一神教であり、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教などのインド系の宗教としての側面とともに、アブラハム系の宗教としての特色も備えている。
バハーイー教との関係
バハーイー教はイスラーム教の預言者ムハンマドの外孫フサインの子孫(サイイド)であるとされるセイイェド・アリー・モハンマドによって開かれた宗教バーブ教を母体とし、その弟子バハウッラーによって創始された宗教である。バハーイー教はそもそもイスラーム教12イマーム派から生まれた宗教であり、その思想や戒律にはイスラームの強い影響が見られる。
イスラームの保守層からして、バハーイー教徒は「背教者」「異端」であり、すさまじい憎悪を浴びている。多くのイスラーム教国でバハーイー教は圧迫されており、とりわけ発祥の地イランではイスラーム共和制の名の下に弾圧されている。バハーイー教の信者は無神論者などと同様、憲法でその存在を承認されておらず、信仰が発覚した場合投獄され最悪の場合死刑に処される。
西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカで迫害されたため、622年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。
ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。
スンナ派とシーア派の分離
ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していったことが最も大きな要因とされる。
しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。
イスラーム帝国の時代
8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけに殆ど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。
また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ、東アフリカ、インド、東南アジア、中央アジア、中国などへ旅立っていったので、しだいにイスラム教の布教範囲は広がっていった。
また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。
しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。
近代
近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。一方で順調にリベラル思想を身につけイスラムの改革を行う人々も多数出現し、イスラームは前近代にも増して多様な実態を持つことになった。
イスラームは先行したユダヤ教、キリスト教等から大きな影響を受け、またシーク教やバハーイー教の成立に大きな役割を果たした。
ユダヤ教との関係
ユダヤ教はアブラハム系3宗教の根本ともいえる宗教であり、イスラームに対しても強い影響を与えた。ムハンマド自身当初は自分の信仰をユダヤ教やキリスト教の延長線上にあるものとして捕らえており、独自の宗教を開くという意図はなかったとも言われている。イスラームの立法的側面は、ユダヤ教のそれを受け継ぎ簡素化させたものであるとされる。
クルアーンにはユダヤ教の指導者たちが預言者として記されており、旧約聖書の事跡をムハンマドなりに解釈したものも記されている。
ユダヤ教徒はイスラーム教徒にとって、同系の宗教を信ずる「啓典の民」であるという側面と、イスラームを受け入れず「劣った」教えにしがみつくおろかな者たちであるという側面が存在している。
キリスト教との関係
キリスト教もまたイスラームの成立に強い影響を与えた。ムハンマドはナザレのイエスを使徒であり預言者であるとしており、クルアーンにも新約聖書に由来するイエスの物語が記されている。また、ムハンマドに啓示を与えた天使ジブリールは、キリスト教においてマリアに受胎告知を行った大天使ガブリエルと同一と考えられている。ただしキリスト教主流派と違い、クルアーンではイエスは単なる人間であり、神の子ではないと明言されている。
キリスト教徒もまた、「啓典の民」としてクルアーンに記されている。
シーク教との関係
シーク教は中世から近世にかけてインドにおけるイスラーム神秘主義とヒンドゥー教のバクティ信仰の相互浸透の結果として生まれた一神教であり、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教などのインド系の宗教としての側面とともに、アブラハム系の宗教としての特色も備えている。
バハーイー教との関係
バハーイー教はイスラーム教の預言者ムハンマドの外孫フサインの子孫(サイイド)であるとされるセイイェド・アリー・モハンマドによって開かれた宗教バーブ教を母体とし、その弟子バハウッラーによって創始された宗教である。バハーイー教はそもそもイスラーム教12イマーム派から生まれた宗教であり、その思想や戒律にはイスラームの強い影響が見られる。
イスラームの保守層からして、バハーイー教徒は「背教者」「異端」であり、すさまじい憎悪を浴びている。多くのイスラーム教国でバハーイー教は圧迫されており、とりわけ発祥の地イランではイスラーム共和制の名の下に弾圧されている。バハーイー教の信者は無神論者などと同様、憲法でその存在を承認されておらず、信仰が発覚した場合投獄され最悪の場合死刑に処される。
PR
- トラックバックURLはこちら