2024/11/25 03:33 |
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2009/06/05 17:32 |
末日聖徒イエス・キリスト教会 |
末日聖徒イエス・キリスト教会(まつじつせいとイエスキリストきょうかい、Church of Jesus Christ of Latter-day Saints; LDS.)は、1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・スミス・ジュニアによって創始されたイエス・キリストを信じる教会。本部は、アメリカ合衆国ユタ州のソルトレイクシティ。一般にはモルモン教会、あるいはモルモン教として知られている。
ジョセフ・スミスの死後、妻エマ・スミスが設立した復元末日聖徒イエス・キリスト教会(現・コミュニティ・オブ・クライスト、日本名「復元イエス・キリスト教会」)も関連項目として挙げられるが、詳細はコミュニティ・オブ・クライストの項目を参照。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、イエス・キリストの教会がキリストと十二使徒の死後、世界史に言ういわゆる背教の道をたどり、頽廃、分派を繰り返し、神権という神の権能が失われたと信じている。ジョセフ・スミスは、教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、キリストの教会がどの教会であるかについて神に祈り求め、その結果、神とイエス・キリストの訪れを受けたと証した。その啓示に基づくと、キリストはジョセフ・スミスに古代に建てられたキリストの教会を回復するように命じ、末日聖徒イエス・キリスト教会の設立に至った。
現在の会員数は教会の公式発表では全世界で1200万人超(ただしバプテスマを受けていない8歳未満の末日聖徒家族の子供を含めた数)。アメリカ合衆国内においては4位の規模としているが、2001年のニューヨーク市立大学の調査では10位に留まると推定している。日本国内に約320箇所の礼拝施設を構えている。 この宗教は、アメリカ合衆国建国(1776年)、合衆国憲法制定(1789年)、憲法修正第1条~第10条制定(1791年)、憲法修正第1条では、宗教・信条の自由が史上初めて権利として認められた合衆国草創期に設立され、西部への入植の歴史があることから、「開拓期を象徴する宗教」とも言われる。
教義
末日聖徒イエス・キリスト教会は次のことを信じている。
天の父なる神と、神格を備えたその長子イエス・キリストと、神格を備えイエスをキリストと証明する聖霊とを信じる。 父と子と聖霊は常に一致して事をなす。 アダムの違反は、神が与えた自由意志の結果であり、人類を生ずるために神の目に適った行いであった。 この違反によって堕落が生じ、この世に不完全さと死がもたらされ、すべての人は自分の罪から真理を学ぶ機会を与えられた。 イエスはアダムの違反の責任と、人の犯す罪の懲らしめを受けるために死をもって贖われ、キリストとして人を父なる神にとりなす者となった。 イエスをキリストとして信じ従うものは、イエスの名に免じて罪が許され、最期の審判で罪なしと宣言されて神の国に入る。
神の国に入った者は互いに助け合って永遠に成長する機会が与えられる。 その中には神格が与えられる者も出る。 キリストを受け入れない者は、自ら罪の懲らしめを受けるが、サタンの影響に耐え切れず取り残される。 人がキリストを受け入れるか否かは神が与えた自由であって誰もそれを奪うことは許されず、試しの期間はその人が産まれてから、死を超えて最期の審判までの間であり、その間に行った言動によって、キリストを受け入れている者かどうかが問われる。 死後の善行や改心には多大の時間とより多くの苦労が伴う。
新約聖書時代、イエス・キリストが教えられたのと同じ原則・教義・真理、神権、そして儀式が、預言者ジョセフ・スミス・ジュニアを媒介として同教会に回復された。この信念の根本をなしているのは、「生ける預言者」とされる大管長が霊感を通して直接神から与えられ続ける新たな啓示や聖文である。
特徴 [編集]
バプテスマ(洗礼)
バプテスマは、人がキリストと交わす最初の契約とされる。 形式は全身を水に浸ける全浸礼である。 伝統キリスト教のバプテスマと末日聖徒のバプテスマは同じ儀式でありながら捕らえ方が根本的に異なる。 末日聖徒はバプテスマを受けただけでは救われないと信じている。
伝統キリスト教のバプテスマと異なり、社会的成熟度や社会的貢献度、人格、財政状態、若年かどうか、軽度の知的障害者かどうか、キリスト教に関する細かい知識、などは一切選考の基準に含まれていない。(ただし未成年者は保護者の同意が必要) 教会の基礎的な教義と指導方針(タブー等)が理解でき、かつキリストへの信仰があるならばバプテスマが施される。
教義の基礎以上の知識は必要とされず、キリストを信仰したいという意思を尊重して施され、改宗までの期間も非常に短いことから、十分教義を理解してバプテスマを受ける信者はまれである。
末日聖徒はバプテスマの後1,2年学んで「洗いの儀式」を含むエンダウメントという一連の儀式が神殿で行われ、クリスチャンネームもそこで受ける。エンダウメントの直前にバプテスマの時の約束が再確認され、教会員としての資質が審査される。
勧誘(伝道)は非常に熱心で、宣教師、一般教会員を問わず伝道の責任がある。訪れやすくするために無料英会話や諸々のパーティ、スポーツ大会などが催される。
「来世」観
人は死ぬと霊となって存在し、キリストについて悟る猶予の時間が与えられる。 やがてこの世に生を受けた全ての人間は復活し、「神の裁きの法廷」に立たされる。人間は、これまでの思いと行いによって裁かれて、神の国に入るか、「外の暗闇(滅び)」に取り残されるかが決定される。誰もが人生のどこかで罪を負っており、法廷に立った時点でキリストとの契約が有効である者は、キリストの情状酌量(贖い)が受けられ、神の国に入ることが許される。 契約が有効でない者は罪ありとされ、「外の暗闇」に取り残され、サタンに支配される。(魂が消滅することはない。) これが教会の教義の根幹となっている。
さらに、神の国は「日の栄」「月の栄」「星の栄」に分かれており、それぞれ「神」「キリスト」「精霊」が管理する国となっている。 裁きによって分けられた住人はそれぞれの管理者に従う天使となって働く。 星の栄は月の栄に従属し、月の栄は日の栄えに従属しており、全員で神の計画を実現する働きをする。
「日の栄」は三つに分かれておりその一つは「昇栄」と呼ばれ、そこに行った者のみが神の位を受ける。そのためには教会が認めた者からバプテスマを受け、また諸々の教会の戒めを守り、神殿結婚を含む必要な全ての儀式を受けることが条件とされる。
「月の栄」は日の栄えには劣るものの、イエス・キリストの教えに従う者が行くところである。
「星の栄」はイエス・キリストの教えに従えないものの、精霊の導きを否定しない者が行くところである。
「神権」
旧約族長時代の「神権」が回復されたと信じており、12歳以上の男性は年齢とふさわしさに基づきアロン神権(執事・教師・祭司・監督)、18歳以上のアロン神権者はメルキゼデク神権(長老・大祭司・七十人・祝福師・使徒)に聖任される。このうちメルキゼデク神権を保有する男性会員は、新約聖書のイエス・キリストとその弟子たちと同様の「癒しの権能」を持つとされている。女性に対しては神権は授与されない。1978年のスペンサー・W・キンボール大管長の「公式の宣言」により、人種差別と長く言われてきた黒人への神権授与資格を認めた。
神殿
一般の礼拝施設である教会堂の他、神殿と呼ばれる特別な礼拝施設を持つ(日本では東京・福岡)。教会員は教会への入会後、最低1年を過ぎ、戒めの遵守、教義の理解が基準に達したと地域教会指導者(ステーク会長)に認められると、神殿推薦状(2年間有効)の発行を受ける。神殿推薦状の発行を受けた会員は、神殿での特別の儀式(イニシャトリ、エンダウメント、結び固め)を受ける事が出来る。神殿の儀式を通して、会員は神と特別な誓約を結ぶとされる。死者のためのバプテスマの儀式に限り、「限定神殿推薦状」を発行された12歳以上の一般会員にも参入が許される。神殿は地上で唯一、サタンが入り込めないところとされており、神殿外に情報を与えないために教会員は内部で行われた儀式等は口外してはならないことになっている。
聖職者
一部を除き、有給専任の聖職者を置いておらず、地域教会は全て一般会員より任命された指導者(奉仕)によって運営されている。神権の位、経験等を考慮して、男女を問わず、ほぼ全ての会員に何らかの責任を与えている。教会での責任のとらえ方は一般のカトリックやプロテスタントの聖職者のとらえ方とは異なる。カトリックやプロテスタントでは聖職者になるには一般的に5年以上の専門教育を神学校等で学ぶが、末日聖徒イエス・キリスト教会ではこのような専門職を養成しないため、たとえばギリシア語やヘブル語原文で聖書を講解するといった人材はほとんどいない。主に、地方の教会を管理するものや教師などで様々である。
一夫多妻
創始者ジョセフ・スミスら限られた数の教会員は一夫多妻制を実行していたが、現在一夫多妻制は実施しておらず、教会員で行う者がいれば破門される。これについて、教会は一夫多妻は神の命によりのみ行われる場合があり、当時は誤りだったとはみとめていない。公式宣言で実施を停止している。現在一夫多妻を実施している集団は、末日聖徒イエス・キリスト教会との関わりはない。
政治 ・実業
糸数慶子
J・ウィラード・マリオット
エズラ・タフト・ベンソン
ケント・ギルバート
ケント・デリカット
スティーブン・R・コヴィー
L・タッド・バッジ
リチャード・L・フォルソム
ケビン・ロリンズ
ウィラード・ミット・ロムニー
Stephen R. Covey→Founder, FranklinCovey
Nolan D. Archibald→CEO, Black and Decker
Gary L Crittenden→CFO, American Express Company
Ron Dittemore→director, space shuttle program
Ray Noorda→CEO, Novell
Kay Whitmore→CEO, Eastman Kodak(1932-2004)
ハリー・M・リード(Harry Reid)
ブッチ・キャシディ(本名Robert LeRoy Parker 1866年-1908年頃 映画「明日に向って撃て!」のモデル)
学術
ヘンリー・アイリング
まつもとゆきひろ
Philo T. Farnsworth→inventor (television)
Robert B. Ingebretsen→inventor (compact discs)
Kim Clark→President of BYU- Idaho,Former dean Harvard Business School
Dr. V. Lane Rawlins→President, Washington State University
Steven Charles Wheelwright→senior associate dean, Harvard University
James Fletcher(1919-1991)→NASA Administrator
芸能 ・スポーツ
あすかあきお(飛鳥昭雄)
岸さん一家 ・岸信子
bless4 (AKINO)
斎藤こず恵
斉藤由貴
田中清
若桜木虔
オースン・スコット・カード
オズモンズ (en:The Osmonds)
バンス・ロー
デール・マーフィー
スティーブ・ヤング
エリザ・ドゥシュク
ザ・ジェッツ (en:The Jets)
ジョン・ヘダー
グラディス・ナイト
エイミー・アダムス
コルビン・オールレッド
※少し脱線したが、信徒に飛鳥 昭雄がいるのが笑えた(笑)中東を理解するうえでおおよそ3つの一神教について調べていたら、一時期英語を話す場として利用させてもらった、末日聖徒イエス・キリスト教会に関する資料にたどりついたのでページをさういてみた。珍しくアメリカ発の新興団体。開拓精神に溢れている点が宗教団体らしからぬ健全さを放つが、一部の日本人からは、不信感に富む団体と見られている模様。まいど思うが、仏教の上座部的な関わり方が、宗教を政治にさせない1つの方法だと思う。団体になった途端に宗教団体はただの人の集団となる。もとい、次回からはまたキリスト教について。
ジョセフ・スミスの死後、妻エマ・スミスが設立した復元末日聖徒イエス・キリスト教会(現・コミュニティ・オブ・クライスト、日本名「復元イエス・キリスト教会」)も関連項目として挙げられるが、詳細はコミュニティ・オブ・クライストの項目を参照。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、イエス・キリストの教会がキリストと十二使徒の死後、世界史に言ういわゆる背教の道をたどり、頽廃、分派を繰り返し、神権という神の権能が失われたと信じている。ジョセフ・スミスは、教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、キリストの教会がどの教会であるかについて神に祈り求め、その結果、神とイエス・キリストの訪れを受けたと証した。その啓示に基づくと、キリストはジョセフ・スミスに古代に建てられたキリストの教会を回復するように命じ、末日聖徒イエス・キリスト教会の設立に至った。
現在の会員数は教会の公式発表では全世界で1200万人超(ただしバプテスマを受けていない8歳未満の末日聖徒家族の子供を含めた数)。アメリカ合衆国内においては4位の規模としているが、2001年のニューヨーク市立大学の調査では10位に留まると推定している。日本国内に約320箇所の礼拝施設を構えている。 この宗教は、アメリカ合衆国建国(1776年)、合衆国憲法制定(1789年)、憲法修正第1条~第10条制定(1791年)、憲法修正第1条では、宗教・信条の自由が史上初めて権利として認められた合衆国草創期に設立され、西部への入植の歴史があることから、「開拓期を象徴する宗教」とも言われる。
教義
末日聖徒イエス・キリスト教会は次のことを信じている。
天の父なる神と、神格を備えたその長子イエス・キリストと、神格を備えイエスをキリストと証明する聖霊とを信じる。 父と子と聖霊は常に一致して事をなす。 アダムの違反は、神が与えた自由意志の結果であり、人類を生ずるために神の目に適った行いであった。 この違反によって堕落が生じ、この世に不完全さと死がもたらされ、すべての人は自分の罪から真理を学ぶ機会を与えられた。 イエスはアダムの違反の責任と、人の犯す罪の懲らしめを受けるために死をもって贖われ、キリストとして人を父なる神にとりなす者となった。 イエスをキリストとして信じ従うものは、イエスの名に免じて罪が許され、最期の審判で罪なしと宣言されて神の国に入る。
神の国に入った者は互いに助け合って永遠に成長する機会が与えられる。 その中には神格が与えられる者も出る。 キリストを受け入れない者は、自ら罪の懲らしめを受けるが、サタンの影響に耐え切れず取り残される。 人がキリストを受け入れるか否かは神が与えた自由であって誰もそれを奪うことは許されず、試しの期間はその人が産まれてから、死を超えて最期の審判までの間であり、その間に行った言動によって、キリストを受け入れている者かどうかが問われる。 死後の善行や改心には多大の時間とより多くの苦労が伴う。
新約聖書時代、イエス・キリストが教えられたのと同じ原則・教義・真理、神権、そして儀式が、預言者ジョセフ・スミス・ジュニアを媒介として同教会に回復された。この信念の根本をなしているのは、「生ける預言者」とされる大管長が霊感を通して直接神から与えられ続ける新たな啓示や聖文である。
特徴 [編集]
バプテスマ(洗礼)
バプテスマは、人がキリストと交わす最初の契約とされる。 形式は全身を水に浸ける全浸礼である。 伝統キリスト教のバプテスマと末日聖徒のバプテスマは同じ儀式でありながら捕らえ方が根本的に異なる。 末日聖徒はバプテスマを受けただけでは救われないと信じている。
伝統キリスト教のバプテスマと異なり、社会的成熟度や社会的貢献度、人格、財政状態、若年かどうか、軽度の知的障害者かどうか、キリスト教に関する細かい知識、などは一切選考の基準に含まれていない。(ただし未成年者は保護者の同意が必要) 教会の基礎的な教義と指導方針(タブー等)が理解でき、かつキリストへの信仰があるならばバプテスマが施される。
教義の基礎以上の知識は必要とされず、キリストを信仰したいという意思を尊重して施され、改宗までの期間も非常に短いことから、十分教義を理解してバプテスマを受ける信者はまれである。
末日聖徒はバプテスマの後1,2年学んで「洗いの儀式」を含むエンダウメントという一連の儀式が神殿で行われ、クリスチャンネームもそこで受ける。エンダウメントの直前にバプテスマの時の約束が再確認され、教会員としての資質が審査される。
勧誘(伝道)は非常に熱心で、宣教師、一般教会員を問わず伝道の責任がある。訪れやすくするために無料英会話や諸々のパーティ、スポーツ大会などが催される。
「来世」観
人は死ぬと霊となって存在し、キリストについて悟る猶予の時間が与えられる。 やがてこの世に生を受けた全ての人間は復活し、「神の裁きの法廷」に立たされる。人間は、これまでの思いと行いによって裁かれて、神の国に入るか、「外の暗闇(滅び)」に取り残されるかが決定される。誰もが人生のどこかで罪を負っており、法廷に立った時点でキリストとの契約が有効である者は、キリストの情状酌量(贖い)が受けられ、神の国に入ることが許される。 契約が有効でない者は罪ありとされ、「外の暗闇」に取り残され、サタンに支配される。(魂が消滅することはない。) これが教会の教義の根幹となっている。
さらに、神の国は「日の栄」「月の栄」「星の栄」に分かれており、それぞれ「神」「キリスト」「精霊」が管理する国となっている。 裁きによって分けられた住人はそれぞれの管理者に従う天使となって働く。 星の栄は月の栄に従属し、月の栄は日の栄えに従属しており、全員で神の計画を実現する働きをする。
「日の栄」は三つに分かれておりその一つは「昇栄」と呼ばれ、そこに行った者のみが神の位を受ける。そのためには教会が認めた者からバプテスマを受け、また諸々の教会の戒めを守り、神殿結婚を含む必要な全ての儀式を受けることが条件とされる。
「月の栄」は日の栄えには劣るものの、イエス・キリストの教えに従う者が行くところである。
「星の栄」はイエス・キリストの教えに従えないものの、精霊の導きを否定しない者が行くところである。
「神権」
旧約族長時代の「神権」が回復されたと信じており、12歳以上の男性は年齢とふさわしさに基づきアロン神権(執事・教師・祭司・監督)、18歳以上のアロン神権者はメルキゼデク神権(長老・大祭司・七十人・祝福師・使徒)に聖任される。このうちメルキゼデク神権を保有する男性会員は、新約聖書のイエス・キリストとその弟子たちと同様の「癒しの権能」を持つとされている。女性に対しては神権は授与されない。1978年のスペンサー・W・キンボール大管長の「公式の宣言」により、人種差別と長く言われてきた黒人への神権授与資格を認めた。
神殿
一般の礼拝施設である教会堂の他、神殿と呼ばれる特別な礼拝施設を持つ(日本では東京・福岡)。教会員は教会への入会後、最低1年を過ぎ、戒めの遵守、教義の理解が基準に達したと地域教会指導者(ステーク会長)に認められると、神殿推薦状(2年間有効)の発行を受ける。神殿推薦状の発行を受けた会員は、神殿での特別の儀式(イニシャトリ、エンダウメント、結び固め)を受ける事が出来る。神殿の儀式を通して、会員は神と特別な誓約を結ぶとされる。死者のためのバプテスマの儀式に限り、「限定神殿推薦状」を発行された12歳以上の一般会員にも参入が許される。神殿は地上で唯一、サタンが入り込めないところとされており、神殿外に情報を与えないために教会員は内部で行われた儀式等は口外してはならないことになっている。
聖職者
一部を除き、有給専任の聖職者を置いておらず、地域教会は全て一般会員より任命された指導者(奉仕)によって運営されている。神権の位、経験等を考慮して、男女を問わず、ほぼ全ての会員に何らかの責任を与えている。教会での責任のとらえ方は一般のカトリックやプロテスタントの聖職者のとらえ方とは異なる。カトリックやプロテスタントでは聖職者になるには一般的に5年以上の専門教育を神学校等で学ぶが、末日聖徒イエス・キリスト教会ではこのような専門職を養成しないため、たとえばギリシア語やヘブル語原文で聖書を講解するといった人材はほとんどいない。主に、地方の教会を管理するものや教師などで様々である。
一夫多妻
創始者ジョセフ・スミスら限られた数の教会員は一夫多妻制を実行していたが、現在一夫多妻制は実施しておらず、教会員で行う者がいれば破門される。これについて、教会は一夫多妻は神の命によりのみ行われる場合があり、当時は誤りだったとはみとめていない。公式宣言で実施を停止している。現在一夫多妻を実施している集団は、末日聖徒イエス・キリスト教会との関わりはない。
政治 ・実業
糸数慶子
J・ウィラード・マリオット
エズラ・タフト・ベンソン
ケント・ギルバート
ケント・デリカット
スティーブン・R・コヴィー
L・タッド・バッジ
リチャード・L・フォルソム
ケビン・ロリンズ
ウィラード・ミット・ロムニー
Stephen R. Covey→Founder, FranklinCovey
Nolan D. Archibald→CEO, Black and Decker
Gary L Crittenden→CFO, American Express Company
Ron Dittemore→director, space shuttle program
Ray Noorda→CEO, Novell
Kay Whitmore→CEO, Eastman Kodak(1932-2004)
ハリー・M・リード(Harry Reid)
ブッチ・キャシディ(本名Robert LeRoy Parker 1866年-1908年頃 映画「明日に向って撃て!」のモデル)
学術
ヘンリー・アイリング
まつもとゆきひろ
Philo T. Farnsworth→inventor (television)
Robert B. Ingebretsen→inventor (compact discs)
Kim Clark→President of BYU- Idaho,Former dean Harvard Business School
Dr. V. Lane Rawlins→President, Washington State University
Steven Charles Wheelwright→senior associate dean, Harvard University
James Fletcher(1919-1991)→NASA Administrator
芸能 ・スポーツ
あすかあきお(飛鳥昭雄)
岸さん一家 ・岸信子
bless4 (AKINO)
斎藤こず恵
斉藤由貴
田中清
若桜木虔
オースン・スコット・カード
オズモンズ (en:The Osmonds)
バンス・ロー
デール・マーフィー
スティーブ・ヤング
エリザ・ドゥシュク
ザ・ジェッツ (en:The Jets)
ジョン・ヘダー
グラディス・ナイト
エイミー・アダムス
コルビン・オールレッド
※少し脱線したが、信徒に飛鳥 昭雄がいるのが笑えた(笑)中東を理解するうえでおおよそ3つの一神教について調べていたら、一時期英語を話す場として利用させてもらった、末日聖徒イエス・キリスト教会に関する資料にたどりついたのでページをさういてみた。珍しくアメリカ発の新興団体。開拓精神に溢れている点が宗教団体らしからぬ健全さを放つが、一部の日本人からは、不信感に富む団体と見られている模様。まいど思うが、仏教の上座部的な関わり方が、宗教を政治にさせない1つの方法だと思う。団体になった途端に宗教団体はただの人の集団となる。もとい、次回からはまたキリスト教について。
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2009/06/05 17:31 |
キリスト教とは |
キリスト教(キリストきょう、基督教)は、ナザレのイエスを救世主イエス・キリスト(メシア)と信じ、『旧約聖書』に加えて、イエスや使徒たちの言行を記した『新約聖書』を基準とし、隣人愛・愛(アガペー)を説く伝統的世界宗教である。世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。
教派
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている。
* 原始キリスト教(最初期のみ、下記の諸教会の前身)
* 西方教会 - 西ローマ帝国で発展した教会。
o カトリック教会
o プロテスタント - 16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派。主な教派として次のようなものがある。
+ 聖公会(イギリス国教会)
+ ルーテル教会(ルター派)
+ 改革派教会(カルヴァン派、長老派教会、改革長老教会)
+ 会衆派教会
+ メソジスト教会
+ バプテスト教会
* 東方教会
o 正教会(オーソドクス) - 東ローマ帝国で発展し、東欧にも広がった教会。
o 東方諸教会 - 非カルケドン派の諸教会(アルメニア使徒教会、コプト正教会など、いわゆる単性論教会)、ネストリウス派など
信徒数
世界全体
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。
アジア地域
アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[5]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピンを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
日本国内
日本国内ではキリスト教の信徒数は約260万人程度であり、神道約1億600万人あるいは仏教約9,200万人という数字に比すと少数派である。G8の国々の中で、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国は東アジアの一員である日本だけという特徴がある。なお、これらの数値を合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは神道と仏教のいずれにも帰属意識を持つ者が多く存在する為である。
様々な分類
また、信仰形態に着目した分類として、次のような区分が用いられることもある。
* 民衆キリスト教 - スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形
* 土着キリスト教 - 上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教
例:ハイチのヴードゥー、キューバのサンテリアなど
教義
キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。正統教義では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする[9]。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[13]。
信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
* 神は三位一体である。
* 父は天地の創造主である。
* 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
* キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
* キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死と復活によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
* キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
* 聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
* 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
* 洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。
* 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
異端
上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認する教派(セクト)は、多数派から「異端」と呼ばれることもある(自称することはない)。
「神概念を多神論的に解釈する」、「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」、「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」、「聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする」、「キリストを被造物とする」などの特徴がある。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から末日聖徒イエス・キリスト教会(蔑称モルモン教)がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。
歴史的には、異端と正統の違いは、視点の違いが含まれていた点にも留意されたい。
モルモン教については末日聖徒イエス・キリスト教会を参照
教派
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている。
* 原始キリスト教(最初期のみ、下記の諸教会の前身)
* 西方教会 - 西ローマ帝国で発展した教会。
o カトリック教会
o プロテスタント - 16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派。主な教派として次のようなものがある。
+ 聖公会(イギリス国教会)
+ ルーテル教会(ルター派)
+ 改革派教会(カルヴァン派、長老派教会、改革長老教会)
+ 会衆派教会
+ メソジスト教会
+ バプテスト教会
* 東方教会
o 正教会(オーソドクス) - 東ローマ帝国で発展し、東欧にも広がった教会。
o 東方諸教会 - 非カルケドン派の諸教会(アルメニア使徒教会、コプト正教会など、いわゆる単性論教会)、ネストリウス派など
信徒数
世界全体
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。
アジア地域
アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[5]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピンを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
日本国内
日本国内ではキリスト教の信徒数は約260万人程度であり、神道約1億600万人あるいは仏教約9,200万人という数字に比すと少数派である。G8の国々の中で、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国は東アジアの一員である日本だけという特徴がある。なお、これらの数値を合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは神道と仏教のいずれにも帰属意識を持つ者が多く存在する為である。
様々な分類
また、信仰形態に着目した分類として、次のような区分が用いられることもある。
* 民衆キリスト教 - スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形
* 土着キリスト教 - 上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教
例:ハイチのヴードゥー、キューバのサンテリアなど
教義
キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。正統教義では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする[9]。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[13]。
信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
* 神は三位一体である。
* 父は天地の創造主である。
* 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
* キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
* キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死と復活によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
* キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
* 聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
* 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
* 洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。
* 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
異端
上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認する教派(セクト)は、多数派から「異端」と呼ばれることもある(自称することはない)。
「神概念を多神論的に解釈する」、「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」、「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」、「聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする」、「キリストを被造物とする」などの特徴がある。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から末日聖徒イエス・キリスト教会(蔑称モルモン教)がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。
歴史的には、異端と正統の違いは、視点の違いが含まれていた点にも留意されたい。
モルモン教については末日聖徒イエス・キリスト教会を参照
2009/06/04 14:43 |
なぜイスラームは日本人に理解しにくいか |
Why is it difficult for the Japanese to understand Islam?
牧野信也著
日本という国はそれ自身、生きた宗教の博物館のようだ、とよくいわれるほど、我々 の周囲には居ながらにして様々な宗教がみられる。日本古来の神道、 奈良時代以来の仏教のいろいろな形態、また、下って戦国時代および明治時代に入っ てきたキリスト教、またその他にも天理教、大本教をはじめ、大小様々な新興宗教と いわれるものまで含めると、その数はどれほどになるであろうか。
このように、日本人はこれまで土着の諸宗教の他に代表的なものだけでも、仏教およ びキリスト教といった世界の主要な宗教を驚くべく包容力をもって受け入れたばかり でなく、それぞれを徹底的に追求して完全に自分自身のものにし、さらには、そこか ら全く日本独特なものを生み出してきた。すなわち、仏教の場合、それがもとインド に興り、次いで中国において展開した後をうけて、日本においてはそのいずれの国に も見られなかったようない独自の方向に、深くしかも広く展開していった。また、キ リスト教の場合についても、先に入ったカトリシズムの場合もそうであるが、とりわ け明治以降、急速に流入したプロテスタンティズムの場合、始めは単純にこれを受け 入れるにすぎなかったが、次第に単なる西欧の模倣ではなく、精神主義を重んずる日 本人のメンタリティーの一面とも強く共鳴して、精度や儀式よりも神の言葉としての 聖書にもとづき、神の前での個々の人間の実存的決断としての信仰を重視する日本独 特のキリスト教が、わずか一世紀そこそこの短い期間に形成された。
ところが、日本人の仏教およびキリスト教との深く緊密な関わりにひき比べ、仏教、 キリスト教と並んで世界の三大宗教の一つに数えられるイスラム教と我々日本人はそ の歴史の過程を通じ、今日に至るまでついに決定的な出会いの機会をもたなかった。 これは上述のように従来、日本人が様々な宗教をたぐい 稀な包容力をもって受け容れてきたことと考え合わせるとき、極めて不思議なことで ある。
なお、日本語の「イスラム」という名称は明らかにヨーロッパ語の Islam からきており、これは従来,我々日本人がこの宗教に関する情報をつねにヨーロッパ を介して得てきたことを端的に表している。我々はこの宗教を、ヨーロッパを介して ではなく、直接知り、そして理解するように務めるべきであり、より 原語に忠実な名称の方が良いと思われる。
さて、イスラームは日本人にとって最も馴染みの薄い宗教であり、イスラームが日本 人にとってわかりにくい宗教である、ということは単に漠然とした印象ではなく、実 は一つのはっきりとした事実であり、また、それには相応な理由と根拠がある、と考 える。
まず第一にイスラームにおいて宗教というものがどのように捉えられているか、一口 にイスラームといううけれども、これは極めて多様で複雑な文化の構造体とも呼ぶべ きものであり、その中には、普通我々が宗教の領域に属するものと考え教義や儀礼や 戒律などがふくまれるばかりでなく、この世における政 治、法律、経済に関する事柄、そしてさらには日常生活の端々にいたることまで、す べて包み込まれている。すなわち、イスラームにおいて宗教とは、人間 生活のある特定の部分にのみ関わることではなく、文字通りそのすべてを覆うのであ る。
例えば仏教やキリスト教と異なり、イスラームはこの世界を、時間的にも空間的にも 、聖なる領域と俗なる領域に分けるということをしない。人間生活のうちのある特定 の部分を神聖なものとして他の日常的・世俗的な部分から切り離すことをしないので ある。
イスラームには、キリスト教の協会に当たるような神聖な場所も、また牧師や僧侶の ような聖職者も存在しない。例えば、モスクと呼ばれている礼拝堂があるが、これは 、聖壇や聖水があって、礼拝のみでなく、秘蹟も行なわれる協会とは全く異なり、単 に集団の礼拝と説教の行なわれる場所である。また、ウラマーと呼ばれる人々がいる が、イスラームにはそもそも僧侶としての身分というものはなく、ウラマーは僧侶で はなく、コーランとそれに関することを研究する学者に他ならない。イスラームにお ける宗教の独自な捉え方というものは、我々にイスラームの理解を困難にさせる第一 の要因をなす、と考えられる。
次に、我々のイスラーム理解を困難にする第二の点に注意を向けてみよう。イスラー ムは多様で複雑な内容をもった宗教であるが、これを巨視的な立場から見た場合、次 のことが注目される。すなわち、それは二つの面を持っているが、両者は互いに全く 逆の方向を向き、正反対であるため、果たしてそのいず れもがイスラームという一つの宗教であるか、と疑われるほどまでに対照的になって いるのである。したがって、イスラームのもつこお相反する二つの面のうち、どちら を見るかによって、我々が心に描くイスラームのイメージが全く異なってくる、また さらには、正反対にさえなってしまう。こうして、二つのうちのどれが本当のイスラ ームの姿であるのか、わからなくなってしまうのである。
ここで、正反対の二つの面と単に言ったが、これについてもう少し詳しく述べる必要 があると思われるので、まずその一方から見ていくことにする。
元来、アラブ人はその思考様式の特徴として、インド人のように観念の世界に広く想 いを馳せるのでも、またギリシア人のように精緻な論理的思考を展開するのでもなく 、なによりもまず、目の前にある個々の物を比類なく鋭い目で凝視し、また身のまわ りの微かな物音をも研ぎすまされた耳で聞き分け、こうして得られた明確な情報に基 いて具体的かつ即物的に考え、行動していく。
もちろん、彼らもまれには観念の世界に注意を向けることもあり、ことに人間の死の 問題はイスラーム以前のアラブが真剣に取組んだおそらく唯一の形而上的テーマであ った。注意すべきことは、彼らは純粋に観念的な次元で死について想いをめぐらした のではなく、現にこの世に生きている人間がどのようにして死なない身となることが できるか、という形で、具体的な体との関わりから死の問題を追究したので ある。具体的・即物的思考こそ、彼らがものを考える場合の基本なのである。
さて、預言者ムハンマド自身このようなメンタリティーを持つアラブの一員であった し、またイスラーム発生後、まずアラブがこの宗教の担い手となったとき、イスラー ムは預言者の活動の後半、メディナ時代以降、一つの独自な方向へ展開することにな った。預言者がその活動を始めたメッカ時代には、預言者自身にとっても、また彼の もとに集まった信徒達にとっても、イスラームは、神から下された啓示の言葉に従っ て個々の人間が直接、その主人である神の前にしもべとして己れを投げ出し、服従す ることであり、その意味で、宗教は神と人との間の個人的・実存的問題であった。
ところが、預言者のメディナ移住以後、彼のまわりには信徒達の共同体が形成され、 神に帰依した信徒達相互の同胞としての関係が大きくクローズアップされ、イスラー ムは最初の個人的・実存的な生の体験に基いたものから、著しく社会的性格をもった 宗教となり、また急速に制度化されていった。そしてこのような方向に向ったイスラ ームの立場からは、人間が現に生きているこの世界が肯定的・積極的に把えられる。 イスラームにおいては、あくまで神の意志に従って現世をより良いものへと 建て直していこうとする。では、神の意志は何によって知ることができるか、という と、それは極めてはっきりしており、一つは神の言葉としてコーランと、もう一つは 預言者ムハンマドがその活動の様々な状況で語った彼自身の言葉、および行ない、こ の二つに神の意志は表われている、と考えられている。
それで、預言者がこの世に生きていた間は、人々はコーランによるなり、あるいは彼 に直接尋ねるなりして神の意志を知ることができた。しかし預言者の死 後、イスラームはまたたく間に広大な地域と様々な人間の集団の中へ急速に広まり、 その結果、イスラーム教徒の構成する社会は日に日に複雑となり、それに応じて、以 前には想像もつかなかったほど多様で複雑な状況が次々と現われるに至り、こうなっ ては次々と起こってくる現実世界のいろいろな問題をコーランと預言者の言行のみに 照らして処理していくことは到底できなくなった。
そこで、預言者の死後一世紀を経た頃から、イスラームの法学者達はコーランと預言 者の言葉を様々に解釈することにより、その中から人間生活のあらゆる局面における 行動を、(1)何を絶対すべきか、(2)何を絶対すべきでないか、(3)何をして もしないでもよいか、(4)何をした方が良いか、(5)何をしない方が良いか、の 五つの基準に従って分類し、一つ一つ規定していく広い適用性をもった法の体系を作 り上げていった。これがイスラーム法といわれるものに他ならない。しかし、これは 法といっても、我々が普通考えるような意味での法律ではなく、その中には宗教に関するものが含まれている。
したがって、ここで筆者が問題にしているイスラームの相反する二つの面のうちの一 つ、現実主義的側面に関するかぎり、イスラーム法に定められていることがらを一つ 一つ忠実に行なっていくことが神の意志に従って行動することであり、これはイスラ ームという宗教を文字通り生きることに他ならない。この点で、イスラーム法は即宗 教であることになり、このように宗教を法という明確で具体的な形で把えていく方向 は、アラブ人が本来もっている上述の即物的存在感覚を考慮するとき、その一つの発 現形態として理解できるであろう。
これまで見てきたイスラームの現実主義的側面は、普通、スンニー派と呼ばれるもの のもつ根本的特徴である。このスンニー派によって代表される現実主義 的側面に対して、イスラームにはそれと正反対の内面主義的、ないしは理想主義的な 側面があり、これはイラン的傾向の強いシーア派の特徴である。こうして、スンニー とシーアの対立はイスラームを大きく二分する。ただし、アッラーは唯一絶対の神で あり、ムハンマドは神の使徒であり、コーランは神の言葉である、といったイスラー ムの根本信条においては完全に一致するが、その他のほとんどすべての重要な点で、 両者は鋭く対立する。
スンニー的イスラームでは、神の意志に従うとは、イスラーム法に従うことであった が、シーア派的イスラームでは、それはイスラームの内面にひそむ精神的実在に従う ことを意味する。シーア派もイスラーム法を否定するわけではないが、イスラーム法 の中に内面的・精神的実在を認めるやいなや、神の意志といううものの捉え方がすっ かり変わってしまう。 スンニー派によって代表される現実主義的方向と、シーア派によって代表される内面 的・理想主義的方向、この相反する二つの面がイスラームという一つの宗教を形作っ ているので、我々の目に映ずるイスラームの姿が何ともいえない複雑な二重の像とし てあらわれ、そのために我々のイスラーム理解が困難になるのではなかろうか。
また、我々のイスラーム理解を困難にする第3の点として次のことを付け加えたい。 今述べた相反する二つの面のうち、内面主義的あるいは精神主義的な側面についいて いえば、これは我々日本人にとって、もちろん、完全にではないが、ある程度それに 共感し、また多少はそれを理解することができるのではなかろうか。といううのは、 日本人はどちらかといえば、宗教といううものを心の問題として捉えようとする傾向 が強く、またそのような伝統もある、とみられるからである。 また、イスラームの研究についてみても、日本ではそれはまだ緒(ちょ)についたば かりであるが、しかし、シーア派に限らずイスラームの上述のような精神主義的側面 に関しては、その数は少ないけれども、極めてすぐれた業績があげられている。
これに対して、もう一つの面としての現実主義的で、形式や制度を重んずる方 向は、我々にとって理解することが非常にむつかしいであろう。すなわち、そこでは すでに見たようなイスラーム法という、いわゆる宗教の領域のみではなく、人間生活 のありとあらゆる領域にわたる行動を逐一規制する法の体系がとりも直さず宗教その ものなのであり、およそイスラーム教徒たるものは、心の中でただ観念的に信じるだ けでは不十分で、 このように定められた「おきて」を一つ一つ忠実に行なっていかなければならなず、 それが神の意志に従って真にイスラームを生きることに他ならないからである。 要するに、ここでイスラームは単に信仰や信条の問題であるにとどまらず、例えば、 何を食べ、何を飲むべきか、といった日常生活の端々にまでわたる、人々の生活様式 、またさらに広くは、文化のあり方といううものと深く関わっているのである。
引用:「ハディース:イスラーム伝承集成」上巻、ブハーリー編纂、牧野信也訳、中央公論社
付録1:「なぜイスラームは日本人に理解しにくいか」、牧野信也著)
付録は牧野信也先生の「イスラームとコーラン」(講談社学術文庫、1987年)からの 引用です。
牧野信也著
日本という国はそれ自身、生きた宗教の博物館のようだ、とよくいわれるほど、我々 の周囲には居ながらにして様々な宗教がみられる。日本古来の神道、 奈良時代以来の仏教のいろいろな形態、また、下って戦国時代および明治時代に入っ てきたキリスト教、またその他にも天理教、大本教をはじめ、大小様々な新興宗教と いわれるものまで含めると、その数はどれほどになるであろうか。
このように、日本人はこれまで土着の諸宗教の他に代表的なものだけでも、仏教およ びキリスト教といった世界の主要な宗教を驚くべく包容力をもって受け入れたばかり でなく、それぞれを徹底的に追求して完全に自分自身のものにし、さらには、そこか ら全く日本独特なものを生み出してきた。すなわち、仏教の場合、それがもとインド に興り、次いで中国において展開した後をうけて、日本においてはそのいずれの国に も見られなかったようない独自の方向に、深くしかも広く展開していった。また、キ リスト教の場合についても、先に入ったカトリシズムの場合もそうであるが、とりわ け明治以降、急速に流入したプロテスタンティズムの場合、始めは単純にこれを受け 入れるにすぎなかったが、次第に単なる西欧の模倣ではなく、精神主義を重んずる日 本人のメンタリティーの一面とも強く共鳴して、精度や儀式よりも神の言葉としての 聖書にもとづき、神の前での個々の人間の実存的決断としての信仰を重視する日本独 特のキリスト教が、わずか一世紀そこそこの短い期間に形成された。
ところが、日本人の仏教およびキリスト教との深く緊密な関わりにひき比べ、仏教、 キリスト教と並んで世界の三大宗教の一つに数えられるイスラム教と我々日本人はそ の歴史の過程を通じ、今日に至るまでついに決定的な出会いの機会をもたなかった。 これは上述のように従来、日本人が様々な宗教をたぐい 稀な包容力をもって受け容れてきたことと考え合わせるとき、極めて不思議なことで ある。
なお、日本語の「イスラム」という名称は明らかにヨーロッパ語の Islam からきており、これは従来,我々日本人がこの宗教に関する情報をつねにヨーロッパ を介して得てきたことを端的に表している。我々はこの宗教を、ヨーロッパを介して ではなく、直接知り、そして理解するように務めるべきであり、より 原語に忠実な名称の方が良いと思われる。
さて、イスラームは日本人にとって最も馴染みの薄い宗教であり、イスラームが日本 人にとってわかりにくい宗教である、ということは単に漠然とした印象ではなく、実 は一つのはっきりとした事実であり、また、それには相応な理由と根拠がある、と考 える。
まず第一にイスラームにおいて宗教というものがどのように捉えられているか、一口 にイスラームといううけれども、これは極めて多様で複雑な文化の構造体とも呼ぶべ きものであり、その中には、普通我々が宗教の領域に属するものと考え教義や儀礼や 戒律などがふくまれるばかりでなく、この世における政 治、法律、経済に関する事柄、そしてさらには日常生活の端々にいたることまで、す べて包み込まれている。すなわち、イスラームにおいて宗教とは、人間 生活のある特定の部分にのみ関わることではなく、文字通りそのすべてを覆うのであ る。
例えば仏教やキリスト教と異なり、イスラームはこの世界を、時間的にも空間的にも 、聖なる領域と俗なる領域に分けるということをしない。人間生活のうちのある特定 の部分を神聖なものとして他の日常的・世俗的な部分から切り離すことをしないので ある。
イスラームには、キリスト教の協会に当たるような神聖な場所も、また牧師や僧侶の ような聖職者も存在しない。例えば、モスクと呼ばれている礼拝堂があるが、これは 、聖壇や聖水があって、礼拝のみでなく、秘蹟も行なわれる協会とは全く異なり、単 に集団の礼拝と説教の行なわれる場所である。また、ウラマーと呼ばれる人々がいる が、イスラームにはそもそも僧侶としての身分というものはなく、ウラマーは僧侶で はなく、コーランとそれに関することを研究する学者に他ならない。イスラームにお ける宗教の独自な捉え方というものは、我々にイスラームの理解を困難にさせる第一 の要因をなす、と考えられる。
次に、我々のイスラーム理解を困難にする第二の点に注意を向けてみよう。イスラー ムは多様で複雑な内容をもった宗教であるが、これを巨視的な立場から見た場合、次 のことが注目される。すなわち、それは二つの面を持っているが、両者は互いに全く 逆の方向を向き、正反対であるため、果たしてそのいず れもがイスラームという一つの宗教であるか、と疑われるほどまでに対照的になって いるのである。したがって、イスラームのもつこお相反する二つの面のうち、どちら を見るかによって、我々が心に描くイスラームのイメージが全く異なってくる、また さらには、正反対にさえなってしまう。こうして、二つのうちのどれが本当のイスラ ームの姿であるのか、わからなくなってしまうのである。
ここで、正反対の二つの面と単に言ったが、これについてもう少し詳しく述べる必要 があると思われるので、まずその一方から見ていくことにする。
元来、アラブ人はその思考様式の特徴として、インド人のように観念の世界に広く想 いを馳せるのでも、またギリシア人のように精緻な論理的思考を展開するのでもなく 、なによりもまず、目の前にある個々の物を比類なく鋭い目で凝視し、また身のまわ りの微かな物音をも研ぎすまされた耳で聞き分け、こうして得られた明確な情報に基 いて具体的かつ即物的に考え、行動していく。
もちろん、彼らもまれには観念の世界に注意を向けることもあり、ことに人間の死の 問題はイスラーム以前のアラブが真剣に取組んだおそらく唯一の形而上的テーマであ った。注意すべきことは、彼らは純粋に観念的な次元で死について想いをめぐらした のではなく、現にこの世に生きている人間がどのようにして死なない身となることが できるか、という形で、具体的な体との関わりから死の問題を追究したので ある。具体的・即物的思考こそ、彼らがものを考える場合の基本なのである。
さて、預言者ムハンマド自身このようなメンタリティーを持つアラブの一員であった し、またイスラーム発生後、まずアラブがこの宗教の担い手となったとき、イスラー ムは預言者の活動の後半、メディナ時代以降、一つの独自な方向へ展開することにな った。預言者がその活動を始めたメッカ時代には、預言者自身にとっても、また彼の もとに集まった信徒達にとっても、イスラームは、神から下された啓示の言葉に従っ て個々の人間が直接、その主人である神の前にしもべとして己れを投げ出し、服従す ることであり、その意味で、宗教は神と人との間の個人的・実存的問題であった。
ところが、預言者のメディナ移住以後、彼のまわりには信徒達の共同体が形成され、 神に帰依した信徒達相互の同胞としての関係が大きくクローズアップされ、イスラー ムは最初の個人的・実存的な生の体験に基いたものから、著しく社会的性格をもった 宗教となり、また急速に制度化されていった。そしてこのような方向に向ったイスラ ームの立場からは、人間が現に生きているこの世界が肯定的・積極的に把えられる。 イスラームにおいては、あくまで神の意志に従って現世をより良いものへと 建て直していこうとする。では、神の意志は何によって知ることができるか、という と、それは極めてはっきりしており、一つは神の言葉としてコーランと、もう一つは 預言者ムハンマドがその活動の様々な状況で語った彼自身の言葉、および行ない、こ の二つに神の意志は表われている、と考えられている。
それで、預言者がこの世に生きていた間は、人々はコーランによるなり、あるいは彼 に直接尋ねるなりして神の意志を知ることができた。しかし預言者の死 後、イスラームはまたたく間に広大な地域と様々な人間の集団の中へ急速に広まり、 その結果、イスラーム教徒の構成する社会は日に日に複雑となり、それに応じて、以 前には想像もつかなかったほど多様で複雑な状況が次々と現われるに至り、こうなっ ては次々と起こってくる現実世界のいろいろな問題をコーランと預言者の言行のみに 照らして処理していくことは到底できなくなった。
そこで、預言者の死後一世紀を経た頃から、イスラームの法学者達はコーランと預言 者の言葉を様々に解釈することにより、その中から人間生活のあらゆる局面における 行動を、(1)何を絶対すべきか、(2)何を絶対すべきでないか、(3)何をして もしないでもよいか、(4)何をした方が良いか、(5)何をしない方が良いか、の 五つの基準に従って分類し、一つ一つ規定していく広い適用性をもった法の体系を作 り上げていった。これがイスラーム法といわれるものに他ならない。しかし、これは 法といっても、我々が普通考えるような意味での法律ではなく、その中には宗教に関するものが含まれている。
したがって、ここで筆者が問題にしているイスラームの相反する二つの面のうちの一 つ、現実主義的側面に関するかぎり、イスラーム法に定められていることがらを一つ 一つ忠実に行なっていくことが神の意志に従って行動することであり、これはイスラ ームという宗教を文字通り生きることに他ならない。この点で、イスラーム法は即宗 教であることになり、このように宗教を法という明確で具体的な形で把えていく方向 は、アラブ人が本来もっている上述の即物的存在感覚を考慮するとき、その一つの発 現形態として理解できるであろう。
これまで見てきたイスラームの現実主義的側面は、普通、スンニー派と呼ばれるもの のもつ根本的特徴である。このスンニー派によって代表される現実主義 的側面に対して、イスラームにはそれと正反対の内面主義的、ないしは理想主義的な 側面があり、これはイラン的傾向の強いシーア派の特徴である。こうして、スンニー とシーアの対立はイスラームを大きく二分する。ただし、アッラーは唯一絶対の神で あり、ムハンマドは神の使徒であり、コーランは神の言葉である、といったイスラー ムの根本信条においては完全に一致するが、その他のほとんどすべての重要な点で、 両者は鋭く対立する。
スンニー的イスラームでは、神の意志に従うとは、イスラーム法に従うことであった が、シーア派的イスラームでは、それはイスラームの内面にひそむ精神的実在に従う ことを意味する。シーア派もイスラーム法を否定するわけではないが、イスラーム法 の中に内面的・精神的実在を認めるやいなや、神の意志といううものの捉え方がすっ かり変わってしまう。 スンニー派によって代表される現実主義的方向と、シーア派によって代表される内面 的・理想主義的方向、この相反する二つの面がイスラームという一つの宗教を形作っ ているので、我々の目に映ずるイスラームの姿が何ともいえない複雑な二重の像とし てあらわれ、そのために我々のイスラーム理解が困難になるのではなかろうか。
また、我々のイスラーム理解を困難にする第3の点として次のことを付け加えたい。 今述べた相反する二つの面のうち、内面主義的あるいは精神主義的な側面についいて いえば、これは我々日本人にとって、もちろん、完全にではないが、ある程度それに 共感し、また多少はそれを理解することができるのではなかろうか。といううのは、 日本人はどちらかといえば、宗教といううものを心の問題として捉えようとする傾向 が強く、またそのような伝統もある、とみられるからである。 また、イスラームの研究についてみても、日本ではそれはまだ緒(ちょ)についたば かりであるが、しかし、シーア派に限らずイスラームの上述のような精神主義的側面 に関しては、その数は少ないけれども、極めてすぐれた業績があげられている。
これに対して、もう一つの面としての現実主義的で、形式や制度を重んずる方 向は、我々にとって理解することが非常にむつかしいであろう。すなわち、そこでは すでに見たようなイスラーム法という、いわゆる宗教の領域のみではなく、人間生活 のありとあらゆる領域にわたる行動を逐一規制する法の体系がとりも直さず宗教その ものなのであり、およそイスラーム教徒たるものは、心の中でただ観念的に信じるだ けでは不十分で、 このように定められた「おきて」を一つ一つ忠実に行なっていかなければならなず、 それが神の意志に従って真にイスラームを生きることに他ならないからである。 要するに、ここでイスラームは単に信仰や信条の問題であるにとどまらず、例えば、 何を食べ、何を飲むべきか、といった日常生活の端々にまでわたる、人々の生活様式 、またさらに広くは、文化のあり方といううものと深く関わっているのである。
引用:「ハディース:イスラーム伝承集成」上巻、ブハーリー編纂、牧野信也訳、中央公論社
付録1:「なぜイスラームは日本人に理解しにくいか」、牧野信也著)
付録は牧野信也先生の「イスラームとコーラン」(講談社学術文庫、1987年)からの 引用です。
2009/06/03 20:00 |
派生した思想・組織 |
ユダヤ=キリスト教徒 [編集]
ユダヤ教・キリスト教に共通の信条・教義を認める人々(Judeo-Christian, Judeochristianity)。ユダヤ教からの視点では、キリスト教は行動・行為の実践よりも信仰を重視するものが多く、イエスをメシアとする、原罪、贖罪、再臨信仰などの三要素ほか、さまざまな点において、ユダヤ教との違いが指摘される(教祖をメシアとするキリスト教的にも異端とされる物を含む)。
* エビオン派 Ebionites
* エルカス派 Elkasites
* ナザレ派→イエスの死後キリスト教として分離
* タルミダイズム Talmidaism-->
* イエスのためのユダヤ人(イエスのためのユダヤ人運動)Jews for Jesus(原理主義的発想はユダヤ教にはなじまないとして、ユダヤ人の間から批判されている)
* メシアニック・ジュダイズム(ユダヤ教の伝統を保ちながらイエスをメシヤと信じる信仰。正統派からは異端視されている)
o メシアニック・リニュード・ジュダイズム
* ユダヤ人キリスト教徒
* キリスト再臨論 Adventism
o セブンスデー・アドベンチスト教会
* キリスト=イスラム伝統 Christo-Islamic
o モリスコ Morisco
ユダヤ=イスラム伝統 [編集]
イスラムは、予定救済説など行動・行為よりも信仰を重視し、大量改宗運動などユダヤ教とは大きく異なるが、二つの伝統の間に位置する人々もいる(Judeo-Islamic)。
* シャブタイ派 Sabbatianism(ユダヤ教の中のメシア運動)
o デンメ派 Dönmeh(もとシャブタイ派の隠れユダヤ教徒)
* ムスリム・ユダヤ人 Muslim Jew
o ジューズ・フォー・アッラー Jews for Allah
隠れユダヤ教徒 [編集]
弾圧などによってユダヤ教の信仰を密かに続けてきた人々(Crypto-Judaism)。
* マラーノ
* コンベルソ
* フランク派(ヤコブ・フランク) Frankists -(ポーランドのヤコブ・フランクをメシアとする。1759年カトリックに改宗させられ、密かにユダヤ的習慣を保ち続けたが弾圧を受け、次第にキリスト教に同化していったと考られる)
* マンダ教 (イラク南部に現存する、古代グノーシスの流れを組む一派)
* ラスタファリズム
聖書 [編集]
* ユダヤ教出版協会(JTS) 1962年版
ミクラーオート・ゲドーロート(ラビ聖書、大聖書) [編集]
* ラビ・ジョーゼフ・ハーマン・ハーツ Joseph Herman Hertz 「トーラーと預言書」 (1929-36, one volume edition 1937) - 翻訳と歴史的註解書と、ハーツの註解書を含んだ大聖書
* ソンシーノ版 Soncino(預言者・諸書。ヘブライ語、英語訳、注釈書)
聖書の解説書 [編集]
* "Understanding Genesis (The Heritage of Biblical Israel) ", by Nahum M. Sarna (ブランダイス大学). Schocken. January 1970. 320 pages. ISBN 0805202536
* エイブラハム・ジョシュア・ヘシェル "The Prophets"
* イェヘスケル・カウフマン Yehezkel Kaufmann: "The Religion of Israel"
* Multi book 『聖書の世界 総解説 「旧約・新約・外典・偽典」ダイジェスト』全訂新版(自由国民社 / ISBN 4-426-62112-7 / 2001年5月)
* Leo Schwarz: "Great Ages and Ideas of Jewish People"
ミシュナー・タルムード、ラビ文学 [編集]
* ルイス・ジェイコブズ Louis Jacobs "Jewish Law" (タルムードの31篇、ハラーハー、レスポンサを収めた入門書)
* Montefiore, C. G. & Loewe, H.: "The Rabbinic Anthology", Schocken, New York. 1970. ISBN 0805204423
* Abraham Cohen: "Everyman's Talmud : The Major Teachings of the Rabbinic Sages", 1995, Schocken, ISBN 0805210326
* George Horowitz: "The Spirit of Jewish Law: A Brief Account of Biblical and Rabbinical Jurisprudence, With a Special Note on Jewish Law and the State of Israel", 1985, Associated Faculty Pr Inc, ISBN 0804693889
* Herbert Danby: "The Mishnah" (The Sixty-three Tractates of the Mishnah, translated with Introduction, etc., published in December, 1933) , ISBN 019815402X - 英訳
* Rabbi Philip Blackman: "Blackman Mishnayoth" (6 Volume Set) , Judaica Press (March 1, 1990) , ISBN 0910818002 - 英訳、注釈書、用語の意味の解説付き
* Dr. A. Ehrman: "El Am Talmud" シリーズ (イスラエル)
613のミツワー [編集]
* Sefer Hahinnuch: The Book of Mitzvah Education : 1 / 2 / 3 / 4 / 5, C. Wengrov, Feldheim Pub, ISBN 317427253 - トーラーに基づくもので、5巻もの
ハラーハー [編集]
* Rabbi Hayim Halevy Donin: "To Be a Jew: A Guide to Jewish Observance in Contemporary Life", Basic Books (October 1, 1991) , ISBN 0465086322
* Richard Siegel, Sharon & Michael Strassfeld "The Jewish Catalog"
o Sharon & Michael Strassfeld: "The Jewish Catalog, 2nd Edition" (全三巻)
* Samuel Dresner: "Jewish Dietary Laws", United Synagogue Book Service (June 1, 1980) , ISBN 0838121055 - カシュルートを扱ったもの
研究書・概説 [編集]
* 「古代ユダヤ教」 Ancient Judaism, マックス・ウェーバー, Free Press, 1967, ISBN 0029341302
* Living Judaism: The Complete Guide to Jewish Belief, Tradition and Practice Wayne Dosick.(「ユダヤ教に生きる」)
* Conservative Judaism: The New Century, Neil Gillman, Behrman House.
* American Jewish Orthodoxy in Historical Perspective Jeffrey S. Gurock, 1996, Ktav.
* Philosophies of Judaism Julius Guttmann, trans. by David Silverman, JPS. 1964
o (邦訳)ユリウス・グットマン『ユダヤ哲学』 (合田正人訳、みすず書房)
* Back to the Sources: Reading the Classic Jewish Texts Ed. Barry W. Holtz, Summit Books
* "Jews and Christians in Late Antiquity" Jason von Ehrenkrook, Journal of the International Institute 13 (2005) .
* A People Divided: Judaism in Contemporary America, Jack Wertheimer. Brandeis Univ. Press, 1997.
* Encyclopaedia Judaica (Encyclopaedia Judaica) , Keter Publishing, CD-ROM edition, 1997
* The American Jewish Identity Survey, article by Egon Mayer, Barry Kosmin and Ariela Keysar; a sub-set of The American Religious Identity Survey, City University of New York Graduate Center. An article on this survey is printed in The New York Jewish Week, November 2, 2001.
* A History of the Jews Paul Johnson, HarperCollins, 1988
* ラビ・エリーザー・バーコヴィッツ Eliezer Berkovits(ラビ・哲学者・文筆家) "Faith After the Holocaust", "God, man and History", 雑誌 "Judaism & Tradistion" の投稿
* ラビ・ルイス・ジェイコブズ Louis Jacobs: "Jewish Values", "Principles of the Jewish Faith", "Jewish Law", "Jewish Thought Today", "Jewish Biblical Exegesis", "Jewish Ethics, Philosophy and Mysticism"
* ミルトン・ヒンメルファーブ Milton Himmelfarb "The Conditions of Jewish Belief" (「選民」とは何か、それらへの観点なども読める)
* ウィル・ハーバーグ Will Herberg: "Judaism and Modern Man"
* デニス・プレガー & ラビ・ジョーゼフ・テルシュキン Joseph Telushkin:"The Nine Questions People Ask About Judaism"
* 『現代人のためのユダヤ教入門』(ミルトス)
* ハーマン・ウォーク『ユダヤ教を語る』(ミルトス)
* ヴィクトル・フランクル "Man's Search for Meaning"
* 『いのり 聖なる場所』(フィリモン・スタージス、ジャイルズ・ラロッシュ、さくまゆみこ 訳 / 光村教育図書 / ISBN 4-89572-641-X / 2004年9月)
* 中世思想原典集成 別巻『中世思想史』(上智大学中世思想研究所 編訳・監修 / K・リーゼンフーバー 著 / 村井則夫 訳 / 平凡社 / ISBN 4-582-73431-6 / 2002年11月 / 8400円(税込))
* 岩波講座 東洋思想 第2巻『ユダヤ思想』(井筒俊彦 他 / 岩波書店 / ISBN 4-00-010322-9 / 1988年1月)
* 『超越のことば イスラーム・ユダヤ哲学における神と人』(井筒俊彦 著 / 岩波書店 / ISBN 4-00-001361-0 / 1991年5月)
* 『二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ノベック 編、鵜沼秀夫 訳、ミルトス、ISBN 4-89586-130-9、1996年10月)
* 『ユダヤ思想にふれた私 生きる・いたみ』(てしまゆうろう 著 / フォレスト出版 / ISBN 4-89451-099-5 / 2000年7月)
* 『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』(副島隆彦 編、SNSI研究員 著 / 祥伝社 / ISBN 4396612346 / 2005年1月)
ユダヤ教・キリスト教に共通の信条・教義を認める人々(Judeo-Christian, Judeochristianity)。ユダヤ教からの視点では、キリスト教は行動・行為の実践よりも信仰を重視するものが多く、イエスをメシアとする、原罪、贖罪、再臨信仰などの三要素ほか、さまざまな点において、ユダヤ教との違いが指摘される(教祖をメシアとするキリスト教的にも異端とされる物を含む)。
* エビオン派 Ebionites
* エルカス派 Elkasites
* ナザレ派→イエスの死後キリスト教として分離
* タルミダイズム Talmidaism-->
* イエスのためのユダヤ人(イエスのためのユダヤ人運動)Jews for Jesus(原理主義的発想はユダヤ教にはなじまないとして、ユダヤ人の間から批判されている)
* メシアニック・ジュダイズム(ユダヤ教の伝統を保ちながらイエスをメシヤと信じる信仰。正統派からは異端視されている)
o メシアニック・リニュード・ジュダイズム
* ユダヤ人キリスト教徒
* キリスト再臨論 Adventism
o セブンスデー・アドベンチスト教会
* キリスト=イスラム伝統 Christo-Islamic
o モリスコ Morisco
ユダヤ=イスラム伝統 [編集]
イスラムは、予定救済説など行動・行為よりも信仰を重視し、大量改宗運動などユダヤ教とは大きく異なるが、二つの伝統の間に位置する人々もいる(Judeo-Islamic)。
* シャブタイ派 Sabbatianism(ユダヤ教の中のメシア運動)
o デンメ派 Dönmeh(もとシャブタイ派の隠れユダヤ教徒)
* ムスリム・ユダヤ人 Muslim Jew
o ジューズ・フォー・アッラー Jews for Allah
隠れユダヤ教徒 [編集]
弾圧などによってユダヤ教の信仰を密かに続けてきた人々(Crypto-Judaism)。
* マラーノ
* コンベルソ
* フランク派(ヤコブ・フランク) Frankists -(ポーランドのヤコブ・フランクをメシアとする。1759年カトリックに改宗させられ、密かにユダヤ的習慣を保ち続けたが弾圧を受け、次第にキリスト教に同化していったと考られる)
* マンダ教 (イラク南部に現存する、古代グノーシスの流れを組む一派)
* ラスタファリズム
聖書 [編集]
* ユダヤ教出版協会(JTS) 1962年版
ミクラーオート・ゲドーロート(ラビ聖書、大聖書) [編集]
* ラビ・ジョーゼフ・ハーマン・ハーツ Joseph Herman Hertz 「トーラーと預言書」 (1929-36, one volume edition 1937) - 翻訳と歴史的註解書と、ハーツの註解書を含んだ大聖書
* ソンシーノ版 Soncino(預言者・諸書。ヘブライ語、英語訳、注釈書)
聖書の解説書 [編集]
* "Understanding Genesis (The Heritage of Biblical Israel) ", by Nahum M. Sarna (ブランダイス大学). Schocken. January 1970. 320 pages. ISBN 0805202536
* エイブラハム・ジョシュア・ヘシェル "The Prophets"
* イェヘスケル・カウフマン Yehezkel Kaufmann: "The Religion of Israel"
* Multi book 『聖書の世界 総解説 「旧約・新約・外典・偽典」ダイジェスト』全訂新版(自由国民社 / ISBN 4-426-62112-7 / 2001年5月)
* Leo Schwarz: "Great Ages and Ideas of Jewish People"
ミシュナー・タルムード、ラビ文学 [編集]
* ルイス・ジェイコブズ Louis Jacobs "Jewish Law" (タルムードの31篇、ハラーハー、レスポンサを収めた入門書)
* Montefiore, C. G. & Loewe, H.: "The Rabbinic Anthology", Schocken, New York. 1970. ISBN 0805204423
* Abraham Cohen: "Everyman's Talmud : The Major Teachings of the Rabbinic Sages", 1995, Schocken, ISBN 0805210326
* George Horowitz: "The Spirit of Jewish Law: A Brief Account of Biblical and Rabbinical Jurisprudence, With a Special Note on Jewish Law and the State of Israel", 1985, Associated Faculty Pr Inc, ISBN 0804693889
* Herbert Danby: "The Mishnah" (The Sixty-three Tractates of the Mishnah, translated with Introduction, etc., published in December, 1933) , ISBN 019815402X - 英訳
* Rabbi Philip Blackman: "Blackman Mishnayoth" (6 Volume Set) , Judaica Press (March 1, 1990) , ISBN 0910818002 - 英訳、注釈書、用語の意味の解説付き
* Dr. A. Ehrman: "El Am Talmud" シリーズ (イスラエル)
613のミツワー [編集]
* Sefer Hahinnuch: The Book of Mitzvah Education : 1 / 2 / 3 / 4 / 5, C. Wengrov, Feldheim Pub, ISBN 317427253 - トーラーに基づくもので、5巻もの
ハラーハー [編集]
* Rabbi Hayim Halevy Donin: "To Be a Jew: A Guide to Jewish Observance in Contemporary Life", Basic Books (October 1, 1991) , ISBN 0465086322
* Richard Siegel, Sharon & Michael Strassfeld "The Jewish Catalog"
o Sharon & Michael Strassfeld: "The Jewish Catalog, 2nd Edition" (全三巻)
* Samuel Dresner: "Jewish Dietary Laws", United Synagogue Book Service (June 1, 1980) , ISBN 0838121055 - カシュルートを扱ったもの
研究書・概説 [編集]
* 「古代ユダヤ教」 Ancient Judaism, マックス・ウェーバー, Free Press, 1967, ISBN 0029341302
* Living Judaism: The Complete Guide to Jewish Belief, Tradition and Practice Wayne Dosick.(「ユダヤ教に生きる」)
* Conservative Judaism: The New Century, Neil Gillman, Behrman House.
* American Jewish Orthodoxy in Historical Perspective Jeffrey S. Gurock, 1996, Ktav.
* Philosophies of Judaism Julius Guttmann, trans. by David Silverman, JPS. 1964
o (邦訳)ユリウス・グットマン『ユダヤ哲学』 (合田正人訳、みすず書房)
* Back to the Sources: Reading the Classic Jewish Texts Ed. Barry W. Holtz, Summit Books
* "Jews and Christians in Late Antiquity" Jason von Ehrenkrook, Journal of the International Institute 13 (2005) .
* A People Divided: Judaism in Contemporary America, Jack Wertheimer. Brandeis Univ. Press, 1997.
* Encyclopaedia Judaica (Encyclopaedia Judaica) , Keter Publishing, CD-ROM edition, 1997
* The American Jewish Identity Survey, article by Egon Mayer, Barry Kosmin and Ariela Keysar; a sub-set of The American Religious Identity Survey, City University of New York Graduate Center. An article on this survey is printed in The New York Jewish Week, November 2, 2001.
* A History of the Jews Paul Johnson, HarperCollins, 1988
* ラビ・エリーザー・バーコヴィッツ Eliezer Berkovits(ラビ・哲学者・文筆家) "Faith After the Holocaust", "God, man and History", 雑誌 "Judaism & Tradistion" の投稿
* ラビ・ルイス・ジェイコブズ Louis Jacobs: "Jewish Values", "Principles of the Jewish Faith", "Jewish Law", "Jewish Thought Today", "Jewish Biblical Exegesis", "Jewish Ethics, Philosophy and Mysticism"
* ミルトン・ヒンメルファーブ Milton Himmelfarb "The Conditions of Jewish Belief" (「選民」とは何か、それらへの観点なども読める)
* ウィル・ハーバーグ Will Herberg: "Judaism and Modern Man"
* デニス・プレガー & ラビ・ジョーゼフ・テルシュキン Joseph Telushkin:"The Nine Questions People Ask About Judaism"
* 『現代人のためのユダヤ教入門』(ミルトス)
* ハーマン・ウォーク『ユダヤ教を語る』(ミルトス)
* ヴィクトル・フランクル "Man's Search for Meaning"
* 『いのり 聖なる場所』(フィリモン・スタージス、ジャイルズ・ラロッシュ、さくまゆみこ 訳 / 光村教育図書 / ISBN 4-89572-641-X / 2004年9月)
* 中世思想原典集成 別巻『中世思想史』(上智大学中世思想研究所 編訳・監修 / K・リーゼンフーバー 著 / 村井則夫 訳 / 平凡社 / ISBN 4-582-73431-6 / 2002年11月 / 8400円(税込))
* 岩波講座 東洋思想 第2巻『ユダヤ思想』(井筒俊彦 他 / 岩波書店 / ISBN 4-00-010322-9 / 1988年1月)
* 『超越のことば イスラーム・ユダヤ哲学における神と人』(井筒俊彦 著 / 岩波書店 / ISBN 4-00-001361-0 / 1991年5月)
* 『二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ノベック 編、鵜沼秀夫 訳、ミルトス、ISBN 4-89586-130-9、1996年10月)
* 『ユダヤ思想にふれた私 生きる・いたみ』(てしまゆうろう 著 / フォレスト出版 / ISBN 4-89451-099-5 / 2000年7月)
* 『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』(副島隆彦 編、SNSI研究員 著 / 祥伝社 / ISBN 4396612346 / 2005年1月)
2009/06/03 19:59 |
ユダヤ教の成立 |
紀元前1280年頃、モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。
カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。
紀元前1020年頃イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分立する。
紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。
その後(紀元前539年)、この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。
カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。
紀元前1020年頃イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分立する。
紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。
その後(紀元前539年)、この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。