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2009/06/26 14:12 |
ヒズボラ 主なテロ事件及びゲリラ闘争 |
- 1982年7月19日 - ベイルートの米大学総長デイヴィッド・ロッジを誘拐。ロッジは、シリア諜報部の仲介により1年後に解放。
- 1983年4月18日 - 駐レバノン米大使館付近で自動車爆弾攻撃実行。63人を殺害し、120人を負傷させる。
- 同年3月7日 - CNNレバノン支局長ジェレミ・レヴィンを誘拐。彼は後に逃亡に成功した。
- 同年3月8日 - 米国籍のレヴェレンド・ヴェイルを誘拐。16ヵ月後、シリアとイランの仲介により解放。
- 同年3月16日 - 米外交官ウィリアム・バクリー誘拐。囚人との交換を要求したが、拒絶される。バクリーは現在も行方不明。
- 同年8月12日 - 在スペイン米空軍基地で爆弾攻撃実行。18人を殺害し、83人に負傷させる。
- 同年9月20日 - 駐ベイルート米大使館に対して自爆攻撃実行。23人を殺害し、米英大使を含む21人を負傷させる。
- 同年12月4日 - ドバイからカラーチーに向かっていたクウェート・エアラインの旅客機をハイジャック。クウェートに収監中の数人の仲間の釈放を要求。機体はテヘランに着陸したが、特殊部隊が突入した。2人が死亡。
- 1985年6月14日 - ローマからアテネに向かっていた旅客機をハイジャックし、ベイルートに向かった。イスラエルと南レバノンに収監中の数百人の仲間の釈放を要求。搭乗員8人と乗客145人を17日間に渡って拘束し、搭乗員1人を殺害した。機体は、アルジェリアに2度飛んだ後、ベイルートに着陸した。人質は解放され、実行犯は逮捕された。
- 1986年9月9日 - 米大学総長を誘拐。44ヵ月後に解放。
- 1986年10月21日 - アメリカ国籍のエドワード・トレイシーを誘拐。1991年8月に解放。
- 1988年2月17日 - 国連監視団長ウィリアム・ヒギンズ大佐を誘拐。イスラエル軍のレバノン撤退と、収監中のパレスチナ人及びレバノン人全員の釈放を要求。米政府は交渉を拒否。大佐は現在も行方不明。
- 1992年3月17日 - 駐アルゼンチン・イスラエル大使館付近で自動車爆弾攻撃実行。29人を殺害する。
同年、当時のヒズボッラー議長シャイフ・アッバース・ムーサウィーがイスラエル軍ヘリによる攻撃で死亡。
同年12月12日、イマード・ムグニヤの弟、フアード・ムグニヤがベイルート南部で自動車に仕掛けられた爆弾の爆発で死亡。
- 同年3月4日 - マナール村付近で爆破事件。イスラエル兵4人を殺害。
- 同年3月20日 - イスラエル軍のジープが随伴していた民間車で自爆攻撃実行。イスラエル兵1人を殺害。
- 同年6月25日 - サウジアラビアの米軍兵舎を爆破。米兵19人を殺害。
- 2000年秋 - スイスでビジネスマンのエルハナン・タンネンバウムを誘拐。
- 2006年7月 - イスラエル兵を拉致。報復としてイスラエル軍はレバノンを空爆。ヒズボッラーはイスラエルへのロケット砲攻撃を敢行、イスラエル北部の主要都市ハイファ等に打撃を与えた。また海上封鎖中の最新鋭艦にミサイルを命中・炎上させ、イスラエル側に衝撃を与えた。その後、空爆に続きイスラエル側がレバノンに越境侵攻し、ヒズボッラー側と激しい戦闘になった(イスラエル・レバノン紛争)。ヒズボッラーは、イランやシリアから提供された最新のロシア製携行対戦車ミサイル、メティスM・コルネットなどで、イスラエルの戦車、メルカバや装甲車に大きな損害を与えた。結局イスラエル側は兵士だけでも100人以上の死者を出し、停戦成立時イスラエル国民のうち6割が今回の戦争は敗北であると考える結果に終わった。
- 2006年8月14日-国連安保理決議に基づき、停戦発効される。(レバノン時間8時)
- ヒズボッラーは停戦成立後、ナスラッラー師(議長)が歴史的な勝利宣言を行った。そして直ちにイスラエルの空爆によって家を失ったレバノン国民に対し、強力な復興支援を開始した。その額1人あたり1万ドルという大金を支援している。
- 2008年2月13日 - ヒズボッラーのテレビ局「アル=マナール」は、軍事作戦顧問で数々のテロ事件を立案・指揮したとされるハッジ・イマード・ムグニヤが、シリアの首都ダマスカスでモサドに よって自動車に仕掛けられた爆弾の爆発により死亡したと発表した。暗殺現場は、ダマスカスのカファル・ソウサア地区で、周辺にはイラン人学校とシリア情報 機関本部がある。ムグニヤは、アメリカから国際テロリストとして国際指名手配を受けてから潜伏し、変装してレバノン-シリア-イラン間を往来していたとさ れる。2006年にイランのアフマディーネジャード大統領と会談したとも伝えられた。
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