2024/11/25 03:04 |
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2009/06/17 09:49 |
悪魔の詩 |
『悪魔の詩』(あくまのし、あくまのうた、訳書にルビはない。原題:The Satanic Verses)は、1988年に発表された、イギリスの作家サルマーン・ルシュディーがムハンマドの生涯を題材に書いた小説である。日本では、筑波大学助教授五十嵐一(いがらし ひとし)によって邦訳(『悪魔の詩(上・下)』、新泉社、1990年)がなされた。
イギリスでは1988年ブッカー賞最終候補となり、また同年のホワイトブレッド賞小説部門を受賞するなど高い評価を得る一方、現代の出来事や人物に強く関連付けられた内容がムスリム社会では冒涜的であると受けとられ、激しい反発を招いた。この結果、一連の焚書騒動、イラン最高指導者ホメイニによるルシュディーの死刑宣告に続き各国の翻訳者・出版関係者を標的とした暗殺事件が発生した。
イスラーム批判 [編集]
イスラームの聖典クルアーン中には神の預言として、メッカの多神教の神々を認めるかのような記述がなされている章句がある[1]。後に預言者ムハンマドは、その章句を神の預言によるものではなく悪魔によるものだとしたが、ルシュディーはこれを揶揄した。具体的に言うと、原題の The Satanic Versesはクルアーンそのものを暗示していると見られる。この他にも、ムハンマドの12人の妻たちと同じ名前を持つ12人の売春婦が登場するなどイスラームに対する揶揄が多くちりばめられており、イスラームに対する挑発でもあった。
死刑宣告とその影響 [編集]
1989年2月14日 - イランの最高指導者アーヤトッラー・ホメイニーによって著者のルシュディー、及び、発行に関わった者などに対する死刑宣告が言い渡され、ルシュディーはイギリス警察に厳重に保護された。死刑宣告はイスラム法の解釈であるファトワー(fatwa)として宣告された。
1989年2月15日 - イランの財団より、ファトワーの実行者に対する高額の懸賞金(日本円に換算して数億円)が提示された。
1989年6月3日 - 心臓発作のためホメイニーが死去。ファトワーの撤回は行われなかった。ファトワーは発した本人以外は撤回できないので、以後、撤回することはできなくなった。
1991年7月11日 - 日本語訳を出版した五十嵐一(筑波大学助教授)が勤務先の筑波大学にて殺害され、翌日に発見された(悪魔の詩訳者殺人事件)。他の外国語翻訳者も狙われた。イタリアやノルウェーでは訳者が何者かに襲われ重傷を負う事件が起こった。
1993年 - トルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡した。
1998年 - イラン政府は、ファトワーを撤回することはできないが、今後一切関与せず、懸賞金も支持しないとの立場を表明。
2006年7月11日 - 悪魔の詩訳者殺人事件で(実行犯が1991年から日本国内に居続けたと仮定した場合の)公訴時効が成立した。
参照 [編集]
^ クルアーン第53章19節から22節、『あなたがたは、アッラートとウッザーを(何であると)考えるか。 それから第3番目のマナートを。あなたがたには男子があり、かれには女子があるというのか。それでは、本当に不当な分け方であろう。』の部分に挿入されていた
イギリスでは1988年ブッカー賞最終候補となり、また同年のホワイトブレッド賞小説部門を受賞するなど高い評価を得る一方、現代の出来事や人物に強く関連付けられた内容がムスリム社会では冒涜的であると受けとられ、激しい反発を招いた。この結果、一連の焚書騒動、イラン最高指導者ホメイニによるルシュディーの死刑宣告に続き各国の翻訳者・出版関係者を標的とした暗殺事件が発生した。
イスラーム批判 [編集]
イスラームの聖典クルアーン中には神の預言として、メッカの多神教の神々を認めるかのような記述がなされている章句がある[1]。後に預言者ムハンマドは、その章句を神の預言によるものではなく悪魔によるものだとしたが、ルシュディーはこれを揶揄した。具体的に言うと、原題の The Satanic Versesはクルアーンそのものを暗示していると見られる。この他にも、ムハンマドの12人の妻たちと同じ名前を持つ12人の売春婦が登場するなどイスラームに対する揶揄が多くちりばめられており、イスラームに対する挑発でもあった。
死刑宣告とその影響 [編集]
1989年2月14日 - イランの最高指導者アーヤトッラー・ホメイニーによって著者のルシュディー、及び、発行に関わった者などに対する死刑宣告が言い渡され、ルシュディーはイギリス警察に厳重に保護された。死刑宣告はイスラム法の解釈であるファトワー(fatwa)として宣告された。
1989年2月15日 - イランの財団より、ファトワーの実行者に対する高額の懸賞金(日本円に換算して数億円)が提示された。
1989年6月3日 - 心臓発作のためホメイニーが死去。ファトワーの撤回は行われなかった。ファトワーは発した本人以外は撤回できないので、以後、撤回することはできなくなった。
1991年7月11日 - 日本語訳を出版した五十嵐一(筑波大学助教授)が勤務先の筑波大学にて殺害され、翌日に発見された(悪魔の詩訳者殺人事件)。他の外国語翻訳者も狙われた。イタリアやノルウェーでは訳者が何者かに襲われ重傷を負う事件が起こった。
1993年 - トルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡した。
1998年 - イラン政府は、ファトワーを撤回することはできないが、今後一切関与せず、懸賞金も支持しないとの立場を表明。
2006年7月11日 - 悪魔の詩訳者殺人事件で(実行犯が1991年から日本国内に居続けたと仮定した場合の)公訴時効が成立した。
参照 [編集]
^ クルアーン第53章19節から22節、『あなたがたは、アッラートとウッザーを(何であると)考えるか。 それから第3番目のマナートを。あなたがたには男子があり、かれには女子があるというのか。それでは、本当に不当な分け方であろう。』の部分に挿入されていた
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2009/06/17 09:48 |
欧州とイスラムの対立 |
デンマークのアナス・フォー・ラスムセン首相は「いかなる宗教であれ冒涜するのは許されない」と述べ、問題の解決の為、最大限の努力を払うと述べている。しかし、右派政権を率いるラスムセン首相は、これまでも移民やイスラム圏に強圧的な態度を示して国民に人気を博しており[要出典]、2005年の風刺画問題発生時に、断固デンマークと西洋の価値観を通すことで外圧に強いという政治的イメージを国民に与える意図から[要出典]、イスラム教徒やアラブ諸国からの議論に応じなかった。このため、イスラムに対し弱腰に転じたり、国内メディアにイスラム教徒に対する配慮を求める可能性は低く、デンマークの国民感情も世論も二分した。
ムスリム側は宗教に対する批判を受け入れる風潮が弱く、風刺画問題によってこれまで欧米から受けてきた屈辱感が更に刺激されているという主張[誰に?]もある。こうした感情から、これまでのデンマーク側の遺憾表明を受け入れていないという見解[誰に?]もある。デンマーク党の政治家は、シリアやイランのような国での大規模デモは官製デモであるとして、これらの国家が風刺画を利用しムスリムと西洋の対立を深めようとしていると非難した。デンマーク国内のイスラム指導者の一部は、デンマークのメディアに出演した際は暴動を起こしたムスリムを批判しながら、アラブ圏のメディアに出演した際はデンマーク制裁を求めるなど、騒ぎをデンマーク国内から世界へ拡大するための矛盾した言動があると非難された[要出典]。デンマークが同性愛問題で寛容な態度を取っているというリベラルな気風ですら、ムスリム圏の扇動家たちの批判の的になっており収拾がつかなくなってきている。
脚注 [編集]
^ コーラン第56章10節から24節『(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(かれらは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向い合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である。』および56章27節から40節『右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。(かれらは)刺のないスィドラの木、累々と実るタルフ木(の中に住み)、長く伸びる木陰の、絶え間なく流れる水の間で、豊かな果物が絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者。(これらは)右手の仲間のためである。昔の者が大勢いるが、後世の者も多い。』、先頭のものとは最良のムスリム、右手の者とは一般のムスリムのことである
^ 14歳が自爆テロ未遂、報酬2400円 パレスチナ 少年を勧誘するに当たり、『殉教すれば天国で72人の処女とセックスができる』と説いていた
^ 天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド
カーバ神殿の黒石を聖別するムハンマド
ティムール朝時代に書かれた『ミウラージュ・ナーマ』のミウラージュの奇蹟におけるムハンマドの地獄下りの場面。右に人頭の天馬ブラークに跨がる人物がムハンマド
ムスリム側は宗教に対する批判を受け入れる風潮が弱く、風刺画問題によってこれまで欧米から受けてきた屈辱感が更に刺激されているという主張[誰に?]もある。こうした感情から、これまでのデンマーク側の遺憾表明を受け入れていないという見解[誰に?]もある。デンマーク党の政治家は、シリアやイランのような国での大規模デモは官製デモであるとして、これらの国家が風刺画を利用しムスリムと西洋の対立を深めようとしていると非難した。デンマーク国内のイスラム指導者の一部は、デンマークのメディアに出演した際は暴動を起こしたムスリムを批判しながら、アラブ圏のメディアに出演した際はデンマーク制裁を求めるなど、騒ぎをデンマーク国内から世界へ拡大するための矛盾した言動があると非難された[要出典]。デンマークが同性愛問題で寛容な態度を取っているというリベラルな気風ですら、ムスリム圏の扇動家たちの批判の的になっており収拾がつかなくなってきている。
脚注 [編集]
^ コーラン第56章10節から24節『(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(かれらは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向い合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である。』および56章27節から40節『右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。(かれらは)刺のないスィドラの木、累々と実るタルフ木(の中に住み)、長く伸びる木陰の、絶え間なく流れる水の間で、豊かな果物が絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者。(これらは)右手の仲間のためである。昔の者が大勢いるが、後世の者も多い。』、先頭のものとは最良のムスリム、右手の者とは一般のムスリムのことである
^ 14歳が自爆テロ未遂、報酬2400円 パレスチナ 少年を勧誘するに当たり、『殉教すれば天国で72人の処女とセックスができる』と説いていた
^ 天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド
カーバ神殿の黒石を聖別するムハンマド
ティムール朝時代に書かれた『ミウラージュ・ナーマ』のミウラージュの奇蹟におけるムハンマドの地獄下りの場面。右に人頭の天馬ブラークに跨がる人物がムハンマド
2009/06/17 09:47 |
ムハンマド風刺漫画掲載問題 |
ムハンマド風刺漫画掲載問題(-ふうしまんがけいさいもんだい)とは、2005年9月にデンマークの日刊紙に掲載されたムハンマドの風刺漫画を巡り、イスラム諸国の政府および国民の間で非難の声が上がり外交問題に発展した事件をさす。問題の戯画についてはウィキペディア英語版に掲載の図版を参照のこと。同様な問題が、2007年8月18日にスウェーデンでも発生した。こちらの問題はすでに沈静化しているが、一部のスウェーデン地方紙に激しい抗議が行われた。→問題の拡大を参照。
発端 [編集]
デンマークで最多の発行部数を誇る高級紙であり一般的に保守的な論調を有しているとされるユランズ・ポステンは、2005年9月30日の紙面にムハンマドの風刺画を掲載した。この風刺画はムハンマドの12のカリカチュアからなり、それらの中にはターバンが爆弾に模されているなど、イスラーム過激派を連想させるものがあった。
この風刺画掲載に至る経緯は次のようなものである。作家・ジャーナリストのカーレ・ブリュイトゲン(Kåre Bluitgen)がムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を書いた際、この本への挿絵の執筆を依頼されたイラストレーターたちは偶像崇拝が禁じられているイスラム教徒からの反発を恐れ誘いを断った。ブリュイトゲンは3人に断られ、1人に「匿名でなら描く」と返答された。ブリュイトゲンの話は2005年9月17日にポリティケン紙によって報じられ、言論の自由さを誇りとする一方、増加するムスリム移民とその文化に警戒を隠さないデンマーク国内において、自己検閲をめぐる議論を起こした。この経緯を聞いたユランズ・ポステンの編集者はイスラム教社会における自己検閲を巡る問題を提起しようと考え、ムハンマドの風刺画の執筆を複数の風刺画作家に依頼、12名がそれに応じて問題の漫画が紙面に掲載された。
風刺画の詳細 [編集]
問題の戯画には"Muhammeds ansigt" ("ムハンマドの顔")という題がつけられている。記事は12の戯画(その全てがムハンマドであると特定できるわけではない)およびユランズ・ポステン文化担当編集者のフレミング・ローズのコメントで構成されている。コメントは次のとおり。
イスラム教徒には近代的で非宗教的な社会を拒絶する者が存在する。彼らは特殊な地位、つまり彼ら自身の宗教上の意識に対する特別な配慮を要求している。このことは、侮辱や皮肉そして揶揄に耐えなければならない、現在の民主主義および報道の自由と両立しない。この事実は必ずしも眺めのいいものではないが、宗教上の意識はいかなる代価を払っても嘲笑する必要があるわけではなく、現代社会における宗教上の意識の重要性が低いことを示している。[...] 我々は自己検閲がどのように終わるかを誰もが説明できない状態に陥りつつある。ユランズ・ポステンがデンマークの戯画作家にムハンマドの漫画を描くよう要請した理由はここにある。[...]
12の戯画を記事における位置に従って時計回りに説明する。:
ムハンマドの顔にイスラムの星、三日月が描かれている。右目が星、三日月は顔の輪郭を覆っている。
ターバンが爆弾に模されたムハンマドの顔。点火されている導火線およびイスラムの教義が描かれている。12の戯画のうち最も議論を呼んだものとされる。
三日月状のハロを頭に添えて立つムハンマド。三日月の中間部はぼやけており、残りの部分は角のように見える。
5つの横顔の殴り書き。それぞれの顔はダヴィデの星と三日月で構成され、短文が付されている。"予言者よ、この野郎!女どもはちゃんと縛り付けておけよ!"
日が没しつつある砂漠を放浪するムハンマド。後方にはロバが見える。
神経が高ぶっている漫画家がムハンマドの顔をかきながら周囲を気にしている。
剣と爆弾を手にしている2人の怒り狂ったムスリムに対して、指導者が話しかけている。"落ち着きたまえ友よ。結局のところこれは南ユトランドの不信心者の書いた絵にすぎん。"
黒板を背にするアラブ風の少年。 舌を突き出し黒板に書かれた文を指している。"ユランズ・ポステンは反動工作員の集まりだ。"少年には"ムハンマド、ヴァルビー・スクール、7.A"とあり、この子が移民の二世であることを示唆している。ヴァルビーはコペンハーゲン郊外の移民が多く住む地区として知られる。
短いサーベルを持ち、検閲により目が隠されたムハンマドの顔。2人の女性に挟まれている。
雲上に立ち、2人の自爆テロ犯を迎えるムハンマド。"待て、処女はもういないぞ!" 自爆テロを煽動する者が、殉教者は死後に処女のいる天国[1]へといけると教えていること[2]への揶揄。
ターバンをつけたカーレ・ブリュイトゲンの頭にオレンジが落下している。
中央、題字の下にはターバンをつけた7名の人物が警察の面通しを受けている。"うーん。どれが彼なのか分からないな。" 7人の人物はそれぞれ: (1) ヒッピー, (2) Pia Kjærsgaard(政治家), (3) イエス, (4) ブッダ, (5) ムハンマド, (6) グールー, (7) カーレ・ブリュイトゲン.
イスラム教社会からの抗議 [編集]
掲載された直後、デンマークのムスリムは反発した。10月12日にはアラブ諸国の11人の大使がデンマーク首相アナス・フォー・ラスムセンに「デンマーク国内の反イスラム教・反ムスリムキャンペーン」について話し合いをするため面会を求めたが、首相は「政府はマスコミにあなたたちの求めるような法的手段を取ることはできない」と面会を断った。既に10月17日にはエジプト紙エル・ファグル(El Fagr)が問題の風刺画を転載するなど、イスラム諸国に反発が広まりつつあった。
10月27日には、デンマーク国内のムスリム団体などが警察に、風刺画掲載は刑法違反であると告発した。(デンマーク刑法170条は、合法的にデンマークにある宗教の教義や崇拝に対し、何人も公開の場であざけったり感情を害させたりしてはならないと定めている。また266条bは、その宗教を理由に人々を脅かすような主張や情報を散布してはならないと定めている。)2006年1月6日、地元捜査官は、「この問題には表現の自由を考慮に入れなければならない。表現の自由があっても信仰の自由などに十分な配慮を行わない場合は該当の条項に違反するが、今回の場合は違反とはいえない」と捜査を打ち切った。
こうしたムスリムの反風刺画の動きは、ムスリム団体へ脅迫の手紙が出されたり、ウィークエンド・アビセン(Weekend Avisen)誌による更に攻撃的な画像掲載につながったという。政府やユランズ・ポステンの対応に不満を持ったイマームたちは、問題の風刺画を掲載してデンマーク国内の状況を説明した43ページのパンフレットを作成し中東への旅に出た。2005年12月6日のイスラム諸国会議機構会議でこのパンフレットは各国代表に渡され、エジプト大使は後にこのパンフレットに基づきデンマーク外相に抗議した。そのパンフレットに掲載された「侮辱的な風刺画」の中には、勘違いによる他の画像や捏造された画像も混じっていたことが明らかになっている。
問題の拡大 [編集]
オレンジは戯画の再掲載を行った新聞が存在する国。丸印は面積が小さいため地図に反映されない国又は地域を示す。2006年に入ると問題は拡大し、口コミや携帯電話のショートメッセージサービス(SMS)で風刺画問題や抗議の呼びかけが広がった。シリアやレバノンでは、1月末から大規模な抗議運動に発展した。これらの国でデンマーク大使館や領事館に対するデモや放火が起こり、イスラム諸国でデンマーク製食品などの不買運動に拡大した。これに対し、欧州各国の新聞、雑誌が「表現の自由をあくまで擁護する」との立場からこれらの風刺画を相次いで転載したことにより、世界中のイスラム社会にさらに大きな憤慨を巻き起こした。
偶像崇拝において一番にタブー視されていることは対象となる者の顔を描く事である。ムハンマドを描くこと自体でも十分問題ではあるが、その顔を描いた事に対しイスラム教徒は多大な憤りを覚えている。風刺の内容も彼らにとって無論、侮辱的ではあるが、それ以上にムハンマドの顔を描いたという事に対し憤慨していると解釈するのが妥当であろうとする説もある。しかし実際にはイスラム世界でもムハンマドの肖像画は数は多くないとはいえ描かれていたため、これを疑問視する声もある。(中央アジア・イランでのテュルク・モンゴル系のイスラム政権では14世紀以降、挿絵入りの歴史書や預言者伝、聖者伝などが大量に作成されたが、そこにはムハンマド自身の姿も描かれた。預言者ムハンマドや聖者(ワーリー)の奇蹟譚は広く愛好・賞揚された。例えばイルハン朝後期にラシードゥッディーンによって編纂された世界史『集史』の預言者ムハンマドの伝記についての部分では、ムハンマド自身も描かれている。この種の挿絵写本の伝統はティムール朝、サファヴィー朝、オスマン朝、ムガル朝などへも受け継がれた。)脚注リンク先の画像なども参照。[3]
リビア、サウジアラビア、シリアの在デンマーク大使は本国に召還された。イランはこれを受け、デンマークとの一切の通商を断絶すると発表した。2006年2月6日にはイランの首都テヘランのオーストリア、デンマーク両大使館にデモ隊が殺到し、火炎瓶などを投げつけた。アフガニスタンやパキスタン、リビア、ナイジェリアなどのデモでは、鎮圧する警察などとの間に激しい争いがおき、死者が出る騒ぎになったほか、キリスト教教会も襲撃された。デモでは、デンマークや風刺画を転載した欧州諸国のみならず、アメリカ合衆国もデモの対象になった。デンマークはこのデモでイスラム圏にいる国民に退去を呼びかけたが、不買運動を通じ農産品・食品などの輸出に多くの損害を出した。
ムスリムおよびデンマークのリベラル派はユランズ・ポステンが報道の自由の権利を誤用していると非難している。これに対してユランズ・ポステンはムスリムの感情を傷付けたことを謝罪したが、どのような風刺であれタブーとしてはならないとしている。ただし、ニューズウィークの取材に編集長が「デンマークでは教会や神に対する中傷は禁止されている」と答えたため、二重基準ではないかと批判された。
イスラエルと対立するパレスチナなどの中東のイスラム社会では、欧州で(ユダヤ人を迫害した)ナチスやヒトラーについて出版、表現を制限しているのに、イスラムへの冒涜に対して表現の自由を標榜するのは二重基準(ダブル・スタンダード)であるとの反発が強まっている。イランの大手新聞「ハムシャフリ(Hamshahri)」は2006年2月6日、ムハンマド風刺画に対して「ホロコースト風刺画」コンテストを行い西側の表現の自由の限界を試すと表明した。11月1日にモロッコの作家が大賞を受賞したことが発表され、中東や欧州、南米の作家に各賞が渡った。イランでは保守派はこのコンテストに賛意を表明したものの、改革派は風刺画問題に対する間違った対応だとして批判した。
2007年8月18日には、スウェーデン・オレブロ市の地方紙Nerikes Allehandaがムハンマドの風刺画を載せたと言う事で、サウジアラビアのイスラム団体、エジプト、イランなどのイスラム諸国がスウェーデン政府及び新聞社に対し抗議を行った。9月12日、スウェーデンのサウジ大使が謝罪を行ったとフランスの通信社が報道した事等により事態は沈静化したが、スウェーデン政府は謝罪を拒否している。風刺画はその他の地方紙でも掲載されている。
2008年2月12日、デンマーク治安当局は風刺漫画を描いた漫画家のうちの一人(クルト・ヴェスタゴーとされている)の暗殺を計画した容疑で5人を逮捕した。計画そのものは未遂に終わっている。これを受け、翌13日には同国の大小15紙がムハンマドの風刺画を一斉に再掲載し、問題の再燃が懸念されている。
2008年6月2日、パキスタン・イスラマバード(Islamabad)のデンマーク大使館への自爆テロが発生、死者6人を出した。国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)は同4日、インターネットでムハンマド風刺への報復とする犯行声明を出した。
発端 [編集]
デンマークで最多の発行部数を誇る高級紙であり一般的に保守的な論調を有しているとされるユランズ・ポステンは、2005年9月30日の紙面にムハンマドの風刺画を掲載した。この風刺画はムハンマドの12のカリカチュアからなり、それらの中にはターバンが爆弾に模されているなど、イスラーム過激派を連想させるものがあった。
この風刺画掲載に至る経緯は次のようなものである。作家・ジャーナリストのカーレ・ブリュイトゲン(Kåre Bluitgen)がムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を書いた際、この本への挿絵の執筆を依頼されたイラストレーターたちは偶像崇拝が禁じられているイスラム教徒からの反発を恐れ誘いを断った。ブリュイトゲンは3人に断られ、1人に「匿名でなら描く」と返答された。ブリュイトゲンの話は2005年9月17日にポリティケン紙によって報じられ、言論の自由さを誇りとする一方、増加するムスリム移民とその文化に警戒を隠さないデンマーク国内において、自己検閲をめぐる議論を起こした。この経緯を聞いたユランズ・ポステンの編集者はイスラム教社会における自己検閲を巡る問題を提起しようと考え、ムハンマドの風刺画の執筆を複数の風刺画作家に依頼、12名がそれに応じて問題の漫画が紙面に掲載された。
風刺画の詳細 [編集]
問題の戯画には"Muhammeds ansigt" ("ムハンマドの顔")という題がつけられている。記事は12の戯画(その全てがムハンマドであると特定できるわけではない)およびユランズ・ポステン文化担当編集者のフレミング・ローズのコメントで構成されている。コメントは次のとおり。
イスラム教徒には近代的で非宗教的な社会を拒絶する者が存在する。彼らは特殊な地位、つまり彼ら自身の宗教上の意識に対する特別な配慮を要求している。このことは、侮辱や皮肉そして揶揄に耐えなければならない、現在の民主主義および報道の自由と両立しない。この事実は必ずしも眺めのいいものではないが、宗教上の意識はいかなる代価を払っても嘲笑する必要があるわけではなく、現代社会における宗教上の意識の重要性が低いことを示している。[...] 我々は自己検閲がどのように終わるかを誰もが説明できない状態に陥りつつある。ユランズ・ポステンがデンマークの戯画作家にムハンマドの漫画を描くよう要請した理由はここにある。[...]
12の戯画を記事における位置に従って時計回りに説明する。:
ムハンマドの顔にイスラムの星、三日月が描かれている。右目が星、三日月は顔の輪郭を覆っている。
ターバンが爆弾に模されたムハンマドの顔。点火されている導火線およびイスラムの教義が描かれている。12の戯画のうち最も議論を呼んだものとされる。
三日月状のハロを頭に添えて立つムハンマド。三日月の中間部はぼやけており、残りの部分は角のように見える。
5つの横顔の殴り書き。それぞれの顔はダヴィデの星と三日月で構成され、短文が付されている。"予言者よ、この野郎!女どもはちゃんと縛り付けておけよ!"
日が没しつつある砂漠を放浪するムハンマド。後方にはロバが見える。
神経が高ぶっている漫画家がムハンマドの顔をかきながら周囲を気にしている。
剣と爆弾を手にしている2人の怒り狂ったムスリムに対して、指導者が話しかけている。"落ち着きたまえ友よ。結局のところこれは南ユトランドの不信心者の書いた絵にすぎん。"
黒板を背にするアラブ風の少年。 舌を突き出し黒板に書かれた文を指している。"ユランズ・ポステンは反動工作員の集まりだ。"少年には"ムハンマド、ヴァルビー・スクール、7.A"とあり、この子が移民の二世であることを示唆している。ヴァルビーはコペンハーゲン郊外の移民が多く住む地区として知られる。
短いサーベルを持ち、検閲により目が隠されたムハンマドの顔。2人の女性に挟まれている。
雲上に立ち、2人の自爆テロ犯を迎えるムハンマド。"待て、処女はもういないぞ!" 自爆テロを煽動する者が、殉教者は死後に処女のいる天国[1]へといけると教えていること[2]への揶揄。
ターバンをつけたカーレ・ブリュイトゲンの頭にオレンジが落下している。
中央、題字の下にはターバンをつけた7名の人物が警察の面通しを受けている。"うーん。どれが彼なのか分からないな。" 7人の人物はそれぞれ: (1) ヒッピー, (2) Pia Kjærsgaard(政治家), (3) イエス, (4) ブッダ, (5) ムハンマド, (6) グールー, (7) カーレ・ブリュイトゲン.
イスラム教社会からの抗議 [編集]
掲載された直後、デンマークのムスリムは反発した。10月12日にはアラブ諸国の11人の大使がデンマーク首相アナス・フォー・ラスムセンに「デンマーク国内の反イスラム教・反ムスリムキャンペーン」について話し合いをするため面会を求めたが、首相は「政府はマスコミにあなたたちの求めるような法的手段を取ることはできない」と面会を断った。既に10月17日にはエジプト紙エル・ファグル(El Fagr)が問題の風刺画を転載するなど、イスラム諸国に反発が広まりつつあった。
10月27日には、デンマーク国内のムスリム団体などが警察に、風刺画掲載は刑法違反であると告発した。(デンマーク刑法170条は、合法的にデンマークにある宗教の教義や崇拝に対し、何人も公開の場であざけったり感情を害させたりしてはならないと定めている。また266条bは、その宗教を理由に人々を脅かすような主張や情報を散布してはならないと定めている。)2006年1月6日、地元捜査官は、「この問題には表現の自由を考慮に入れなければならない。表現の自由があっても信仰の自由などに十分な配慮を行わない場合は該当の条項に違反するが、今回の場合は違反とはいえない」と捜査を打ち切った。
こうしたムスリムの反風刺画の動きは、ムスリム団体へ脅迫の手紙が出されたり、ウィークエンド・アビセン(Weekend Avisen)誌による更に攻撃的な画像掲載につながったという。政府やユランズ・ポステンの対応に不満を持ったイマームたちは、問題の風刺画を掲載してデンマーク国内の状況を説明した43ページのパンフレットを作成し中東への旅に出た。2005年12月6日のイスラム諸国会議機構会議でこのパンフレットは各国代表に渡され、エジプト大使は後にこのパンフレットに基づきデンマーク外相に抗議した。そのパンフレットに掲載された「侮辱的な風刺画」の中には、勘違いによる他の画像や捏造された画像も混じっていたことが明らかになっている。
問題の拡大 [編集]
オレンジは戯画の再掲載を行った新聞が存在する国。丸印は面積が小さいため地図に反映されない国又は地域を示す。2006年に入ると問題は拡大し、口コミや携帯電話のショートメッセージサービス(SMS)で風刺画問題や抗議の呼びかけが広がった。シリアやレバノンでは、1月末から大規模な抗議運動に発展した。これらの国でデンマーク大使館や領事館に対するデモや放火が起こり、イスラム諸国でデンマーク製食品などの不買運動に拡大した。これに対し、欧州各国の新聞、雑誌が「表現の自由をあくまで擁護する」との立場からこれらの風刺画を相次いで転載したことにより、世界中のイスラム社会にさらに大きな憤慨を巻き起こした。
偶像崇拝において一番にタブー視されていることは対象となる者の顔を描く事である。ムハンマドを描くこと自体でも十分問題ではあるが、その顔を描いた事に対しイスラム教徒は多大な憤りを覚えている。風刺の内容も彼らにとって無論、侮辱的ではあるが、それ以上にムハンマドの顔を描いたという事に対し憤慨していると解釈するのが妥当であろうとする説もある。しかし実際にはイスラム世界でもムハンマドの肖像画は数は多くないとはいえ描かれていたため、これを疑問視する声もある。(中央アジア・イランでのテュルク・モンゴル系のイスラム政権では14世紀以降、挿絵入りの歴史書や預言者伝、聖者伝などが大量に作成されたが、そこにはムハンマド自身の姿も描かれた。預言者ムハンマドや聖者(ワーリー)の奇蹟譚は広く愛好・賞揚された。例えばイルハン朝後期にラシードゥッディーンによって編纂された世界史『集史』の預言者ムハンマドの伝記についての部分では、ムハンマド自身も描かれている。この種の挿絵写本の伝統はティムール朝、サファヴィー朝、オスマン朝、ムガル朝などへも受け継がれた。)脚注リンク先の画像なども参照。[3]
リビア、サウジアラビア、シリアの在デンマーク大使は本国に召還された。イランはこれを受け、デンマークとの一切の通商を断絶すると発表した。2006年2月6日にはイランの首都テヘランのオーストリア、デンマーク両大使館にデモ隊が殺到し、火炎瓶などを投げつけた。アフガニスタンやパキスタン、リビア、ナイジェリアなどのデモでは、鎮圧する警察などとの間に激しい争いがおき、死者が出る騒ぎになったほか、キリスト教教会も襲撃された。デモでは、デンマークや風刺画を転載した欧州諸国のみならず、アメリカ合衆国もデモの対象になった。デンマークはこのデモでイスラム圏にいる国民に退去を呼びかけたが、不買運動を通じ農産品・食品などの輸出に多くの損害を出した。
ムスリムおよびデンマークのリベラル派はユランズ・ポステンが報道の自由の権利を誤用していると非難している。これに対してユランズ・ポステンはムスリムの感情を傷付けたことを謝罪したが、どのような風刺であれタブーとしてはならないとしている。ただし、ニューズウィークの取材に編集長が「デンマークでは教会や神に対する中傷は禁止されている」と答えたため、二重基準ではないかと批判された。
イスラエルと対立するパレスチナなどの中東のイスラム社会では、欧州で(ユダヤ人を迫害した)ナチスやヒトラーについて出版、表現を制限しているのに、イスラムへの冒涜に対して表現の自由を標榜するのは二重基準(ダブル・スタンダード)であるとの反発が強まっている。イランの大手新聞「ハムシャフリ(Hamshahri)」は2006年2月6日、ムハンマド風刺画に対して「ホロコースト風刺画」コンテストを行い西側の表現の自由の限界を試すと表明した。11月1日にモロッコの作家が大賞を受賞したことが発表され、中東や欧州、南米の作家に各賞が渡った。イランでは保守派はこのコンテストに賛意を表明したものの、改革派は風刺画問題に対する間違った対応だとして批判した。
2007年8月18日には、スウェーデン・オレブロ市の地方紙Nerikes Allehandaがムハンマドの風刺画を載せたと言う事で、サウジアラビアのイスラム団体、エジプト、イランなどのイスラム諸国がスウェーデン政府及び新聞社に対し抗議を行った。9月12日、スウェーデンのサウジ大使が謝罪を行ったとフランスの通信社が報道した事等により事態は沈静化したが、スウェーデン政府は謝罪を拒否している。風刺画はその他の地方紙でも掲載されている。
2008年2月12日、デンマーク治安当局は風刺漫画を描いた漫画家のうちの一人(クルト・ヴェスタゴーとされている)の暗殺を計画した容疑で5人を逮捕した。計画そのものは未遂に終わっている。これを受け、翌13日には同国の大小15紙がムハンマドの風刺画を一斉に再掲載し、問題の再燃が懸念されている。
2008年6月2日、パキスタン・イスラマバード(Islamabad)のデンマーク大使館への自爆テロが発生、死者6人を出した。国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)は同4日、インターネットでムハンマド風刺への報復とする犯行声明を出した。
2009/06/17 09:37 |
ムハンマドへの批判 |
ムハンマドへの批判の項目では、イスラームの預言者・開祖であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフへの批判について記述する。キリスト教の開祖ナザレのイエス、仏教の開祖ゴーダマ・シッダールダなどの他の宗教指導者同様、ムハンマドに関してもその生涯・思想などに関してさまざまに批判されている。
ムハンマドの結婚に関して [編集]
キリスト教世界におけるムハンマドへの批判の主なもののひとつに、彼が一夫多妻であったということがあるとジョン・エスポシト(John Esposito)は述べている[1]。しかしこの問題に関するキリスト教世界の学者たちの意見は近年変わり始めている[2]。エスポシトの述べるところによれば、セム系民族の文化は一般に一夫多妻であった(たとえば聖書の書かれた時期、およびそれ以前のユダヤ教など) 。一夫多妻はアラブ人、とりわけ貴族や指導者には通常のことだった[1]。ムスリムはしばしば以下のことを指摘した。すなわちムハンマドは彼が25歳の時に、40歳になろうかという未亡人ハディージャと結婚し、彼女が死ぬまでの25年間他に妻を娶らなかった。しかし、ファズルール・ラフマン(Fazlur Rahman)の主張するところによれば、彼が50歳になって以降、とりわけ彼が説教者であり宗教体系の創始者となって以降は一夫一妻を続けることができなくなった[2][1]。エスポシトは11回にわたるムハンマドの結婚のほとんどは社会的・政治的原因が存在しているとしている。政治的同盟を強固なものとするのに結婚を用いることは、アラブ人の指導者にとって通常のことであった。又処女性を強調する社会で、寡婦の再婚は著しく困難であった[1]。
アーイシャとの結婚に関して [編集]
ムハンマドとアーイシャとの結婚はとりわけ論争を呼んでいるが、それは主として彼女の結婚時の年齢に起因している。D. A.スペルバーグ(Denise A. Spellberg)が述べるところによれば、イブン・サードによる伝承ではアーイシャの結婚時の年齢は6歳から7歳であるという[3]。彼女は両親の家に思春期が始まる9歳になるまでとどまり (イブン・ヒシャームによれば10歳)、そして彼女とムハンマドとの結婚は完成された(初夜のセックスを行った)[3][4]スペルバーグの述べるところによれば、アーイシャの年齢に関するこれらの記述はアーイシャの地位と、婉曲的であるものの処女性を強調するという[3]。
アーイシャの年齢は、ムハンマドがあまりにも幼い少女とセックスを行ったと考えるいくらかの非ムスリムにとっては特に問題である。非ムスリムの研究者の間では少なからず、とりわけ反イスラーム主義者を中心として、ムハンマドの行為は今日の世界では児童性的虐待にあたり、決して容認できないとする意見が存在している[5]。反イスラーム主義者のハーシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)は、「自分が53歳のときに6歳の女の子と結婚し、9歳のときに結婚を完成させた-初夜の性交を行った-堕落者」と預言者ムハンマドを攻撃した。またアメリカのバプテスト主義の指導者ジェリー・ヴァインズ(Jerry Vines)はムハンマドを「邪悪な小児性愛者」と呼んだ[6][7]。ユダヤ教徒とプロテスタント主流派の指導者はムスリムとともにジェリーのコメントを糾弾するのに加わった。名誉毀損防止同盟のエイブラハム・フォックスマンはこのコメントを嘆かわしいとし、加えてそれが「他の宗教を中傷して、反合法化してきた実績を持っている」南部バプテスト協会の指導部から出されたことは驚くべきことではないとした[7]。
ペルシア語とイスラーム史の専門家コリン・ターナーは、そのような成人男子と幼い少女との結婚は当時のベドウィンの慣習であったし、世界の多くの地域でもなお行われており[8]、よってムハンマドの結婚は少なくとも当時の文脈に照らせば不適切ではないと述べた。コリンは7世紀のアラブ人は現代の欧米人より早く体が成熟する傾向があったとも主張している[9]。ただし彼は医学の専門家ではなく、具体的にどの程度早いかということも明確にはしていない。コリンの肉体的成熟に関する議論には異論が強い[10]。また当時の文脈において仮に「問題ない」としても、現代においてその評価を無批判に再生産する必要があるのかという意見もある。イスラーム法を厳格に施行するイスラーム国家(シーア派12イマーム派のイランやスンナ派ワッハーブ派のサウジアラビアなど)では、現代においてもムハンマドの事跡に基づき9歳の少女との結婚・性行為も合法である場合があり、このことも批判の原因となっている。
アーイシャの結婚の年齢が実際に9歳であったかについても議論がある。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったと主張するなど、異論が多い[11]。
サフィーヤ・ビント=フヤーイーとの結婚に関して [編集]
サフィーヤ・ビント=フヤーイーはバヌー・ナディール族のユダヤ人女性であり、17歳のときムハンマドの11番目の妻となった[12]。 イブン・イシャークの伝えるところによれば、ムハンマドは彼女の夫であるキナーナ・イブン=アル・ラービにいくらかの隠された財宝のありかを教えるよう願った。キナーナがそれを拒んだとき、ムハンマドは男に命じて彼を拷問させた。そしてその男は「彼の胸の上に火打石と打ち金を置き、彼が死に掛けるまで火をつけ続けた」という。キナーナはその後首をはねられた[13]。ムハンマドは彼女にイスラームへの改宗を求め、カイバルで彼女との結婚を完成させた(初夜のセックスを行った)[14][15]。学者の中にはムハンマドはユダヤ人の部族との和睦と善意の表明のためにサフィーヤと結婚することを選んだのだという意見を唱えるものもいる[16][17]。
ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して [編集]
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュはムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[18]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[19]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[20]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[21]。
このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またクルアーン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[22]。
ムハンマドの結婚に関して [編集]
キリスト教世界におけるムハンマドへの批判の主なもののひとつに、彼が一夫多妻であったということがあるとジョン・エスポシト(John Esposito)は述べている[1]。しかしこの問題に関するキリスト教世界の学者たちの意見は近年変わり始めている[2]。エスポシトの述べるところによれば、セム系民族の文化は一般に一夫多妻であった(たとえば聖書の書かれた時期、およびそれ以前のユダヤ教など) 。一夫多妻はアラブ人、とりわけ貴族や指導者には通常のことだった[1]。ムスリムはしばしば以下のことを指摘した。すなわちムハンマドは彼が25歳の時に、40歳になろうかという未亡人ハディージャと結婚し、彼女が死ぬまでの25年間他に妻を娶らなかった。しかし、ファズルール・ラフマン(Fazlur Rahman)の主張するところによれば、彼が50歳になって以降、とりわけ彼が説教者であり宗教体系の創始者となって以降は一夫一妻を続けることができなくなった[2][1]。エスポシトは11回にわたるムハンマドの結婚のほとんどは社会的・政治的原因が存在しているとしている。政治的同盟を強固なものとするのに結婚を用いることは、アラブ人の指導者にとって通常のことであった。又処女性を強調する社会で、寡婦の再婚は著しく困難であった[1]。
アーイシャとの結婚に関して [編集]
ムハンマドとアーイシャとの結婚はとりわけ論争を呼んでいるが、それは主として彼女の結婚時の年齢に起因している。D. A.スペルバーグ(Denise A. Spellberg)が述べるところによれば、イブン・サードによる伝承ではアーイシャの結婚時の年齢は6歳から7歳であるという[3]。彼女は両親の家に思春期が始まる9歳になるまでとどまり (イブン・ヒシャームによれば10歳)、そして彼女とムハンマドとの結婚は完成された(初夜のセックスを行った)[3][4]スペルバーグの述べるところによれば、アーイシャの年齢に関するこれらの記述はアーイシャの地位と、婉曲的であるものの処女性を強調するという[3]。
アーイシャの年齢は、ムハンマドがあまりにも幼い少女とセックスを行ったと考えるいくらかの非ムスリムにとっては特に問題である。非ムスリムの研究者の間では少なからず、とりわけ反イスラーム主義者を中心として、ムハンマドの行為は今日の世界では児童性的虐待にあたり、決して容認できないとする意見が存在している[5]。反イスラーム主義者のハーシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)は、「自分が53歳のときに6歳の女の子と結婚し、9歳のときに結婚を完成させた-初夜の性交を行った-堕落者」と預言者ムハンマドを攻撃した。またアメリカのバプテスト主義の指導者ジェリー・ヴァインズ(Jerry Vines)はムハンマドを「邪悪な小児性愛者」と呼んだ[6][7]。ユダヤ教徒とプロテスタント主流派の指導者はムスリムとともにジェリーのコメントを糾弾するのに加わった。名誉毀損防止同盟のエイブラハム・フォックスマンはこのコメントを嘆かわしいとし、加えてそれが「他の宗教を中傷して、反合法化してきた実績を持っている」南部バプテスト協会の指導部から出されたことは驚くべきことではないとした[7]。
ペルシア語とイスラーム史の専門家コリン・ターナーは、そのような成人男子と幼い少女との結婚は当時のベドウィンの慣習であったし、世界の多くの地域でもなお行われており[8]、よってムハンマドの結婚は少なくとも当時の文脈に照らせば不適切ではないと述べた。コリンは7世紀のアラブ人は現代の欧米人より早く体が成熟する傾向があったとも主張している[9]。ただし彼は医学の専門家ではなく、具体的にどの程度早いかということも明確にはしていない。コリンの肉体的成熟に関する議論には異論が強い[10]。また当時の文脈において仮に「問題ない」としても、現代においてその評価を無批判に再生産する必要があるのかという意見もある。イスラーム法を厳格に施行するイスラーム国家(シーア派12イマーム派のイランやスンナ派ワッハーブ派のサウジアラビアなど)では、現代においてもムハンマドの事跡に基づき9歳の少女との結婚・性行為も合法である場合があり、このことも批判の原因となっている。
アーイシャの結婚の年齢が実際に9歳であったかについても議論がある。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったと主張するなど、異論が多い[11]。
サフィーヤ・ビント=フヤーイーとの結婚に関して [編集]
サフィーヤ・ビント=フヤーイーはバヌー・ナディール族のユダヤ人女性であり、17歳のときムハンマドの11番目の妻となった[12]。 イブン・イシャークの伝えるところによれば、ムハンマドは彼女の夫であるキナーナ・イブン=アル・ラービにいくらかの隠された財宝のありかを教えるよう願った。キナーナがそれを拒んだとき、ムハンマドは男に命じて彼を拷問させた。そしてその男は「彼の胸の上に火打石と打ち金を置き、彼が死に掛けるまで火をつけ続けた」という。キナーナはその後首をはねられた[13]。ムハンマドは彼女にイスラームへの改宗を求め、カイバルで彼女との結婚を完成させた(初夜のセックスを行った)[14][15]。学者の中にはムハンマドはユダヤ人の部族との和睦と善意の表明のためにサフィーヤと結婚することを選んだのだという意見を唱えるものもいる[16][17]。
ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して [編集]
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュはムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[18]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[19]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[20]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[21]。
このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またクルアーン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[22]。
2009/06/17 09:34 |
ムハンマド文献 |
井筒俊彦訳『コーラン』(上、中、下巻 岩波文庫 青 813-1〜813-3)岩波書店 改版版 1957-1958年。
藤本 勝次(翻訳)、池田 修(翻訳)、伴 康哉 (翻訳) 『コーラン〈1〉』『 コーラン〈2〉』 (中公クラシックス) 中央公論新社 2002年。
中田考(監修)、中田香織(翻訳)『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
牧野信也訳『ハディース イスラーム伝承集成』全3巻 中央公論社、1993-1994年。(文庫版 全6巻 中央文庫 中央公論新社、2001年)*ブハーリーのハディース集成書『真正集』の完訳。
小杉泰『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』(historia) 山川出版社、2002年5月。
小杉泰『イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 』(講談社現代新書)講談社、1994年7月。
中村廣治郎『イスラム教入門』(岩波新書 赤 538)1998年1月。
大塚和夫、小松久男、羽田正、小杉泰、東長靖、山内昌之 他『岩波 イスラーム辞典』岩波書店、2002年。(「アーイシャ」、「結婚」、「ムハンマド」ともに小杉泰が担当)
嶋田 襄平、佐藤 次高、板垣 雄三、日本イスラム協会他『新イスラム事典』平凡社、2002年。
片倉 もとこ、後藤 明、中村 光男、 加賀谷 寛『イスラーム世界事典』明石書店、2002年。
ズィーバ・ミール=ホセイニー著、山岸智子他訳、『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』明石書店、2004年
藤本 勝次(翻訳)、池田 修(翻訳)、伴 康哉 (翻訳) 『コーラン〈1〉』『 コーラン〈2〉』 (中公クラシックス) 中央公論新社 2002年。
中田考(監修)、中田香織(翻訳)『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
牧野信也訳『ハディース イスラーム伝承集成』全3巻 中央公論社、1993-1994年。(文庫版 全6巻 中央文庫 中央公論新社、2001年)*ブハーリーのハディース集成書『真正集』の完訳。
小杉泰『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』(historia) 山川出版社、2002年5月。
小杉泰『イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 』(講談社現代新書)講談社、1994年7月。
中村廣治郎『イスラム教入門』(岩波新書 赤 538)1998年1月。
大塚和夫、小松久男、羽田正、小杉泰、東長靖、山内昌之 他『岩波 イスラーム辞典』岩波書店、2002年。(「アーイシャ」、「結婚」、「ムハンマド」ともに小杉泰が担当)
嶋田 襄平、佐藤 次高、板垣 雄三、日本イスラム協会他『新イスラム事典』平凡社、2002年。
片倉 もとこ、後藤 明、中村 光男、 加賀谷 寛『イスラーム世界事典』明石書店、2002年。
ズィーバ・ミール=ホセイニー著、山岸智子他訳、『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』明石書店、2004年