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中東観察

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2009/06/17
09:34
ムハンマドと女性

イスラーム共同体(ウンマ)がヒジュラとマッカ征服によって急速に勢力を拡大すると、抗争をくり返していたアラビア半島のアラブ諸部族は共同体の首長であるムハンマドの政治交渉における誠実さを見込み、彼と同盟関係を結ぶなどした。この過程でムハンマドは共同体内部の有力家系の婦女の他に、征服した勢力や同盟・帰順関係を結んでいたアラブ諸部族などからも妻を迎えることとなった。伝承によると、ムハンマドの妻たちは22人居たと伝えられる。ムハンマドの女性観、女性関係はムハンマドが非ムスリムを中心として批判される原因ともなった。


ムハンマドの妻・妾一覧
正妻

ハディージャ
サウダ・ビント・ザムア:en
アーイシャ(アブー=バクルの娘)
ハフサ(ウマルの娘):en
ウンム・サラマ・ヒンド(アブー・スフヤーンの娘):en
ザイナブ・ビント・フザイマ:en
ウンム・ハリーマ・ザイナブ・ビント・ジュフシュ:en
ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス:en
ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーン(アブー・スフヤーンの娘で上記のウンム・サラマの姉妹):en
サフィーヤ・ビント・フヤイイ(ハイバル出身):en
マイムーナ・ビント・アル=ハーリス:en
コプトのマリア(マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーン):en(ムハンマドの末子イブラーヒームの母。エジプト出身のコプト教徒の娘。[11])
シャラーフ・ビント・ハリーファ・アル=カルビー(ベドウィンの出身でムハンマド在世中に死去)
アーリーヤ・ビント・ズブヤーン(ムハンマド在世中に離婚。)
ファーティマ・ビント・ダハーク・アル=ハズィーリー(ムハンマド在世中に離婚。)
アスマ-ウ? (ソバ出身)
ハブラ
アスマーウ? (ノーマン出身)
側室

ライハーナ?
ウンム・シャンク?
クハウラ

ムハンマドに遡る結婚規定について
イスラーム法の法源であるクルアーン、およびハディースでは結婚に関する規定やムハンマドに由来する逸話がいくつか存在する。クルアーンによれば、男性には娶って良い女性と娶ってはならない女性があることが述べられている。

「汝らに娶ってはならぬ相手として、自分の母、娘、姉妹、父方のおばと母方のおば、兄弟の娘と姉妹の娘(ともに姪)、授乳した乳母、同乳の姉妹、妻の母、汝らが肉体的交渉をもった妻が以前に生んで連れて来た養女(継娘)、今汝らが後見している者、未だ肉体的交渉をしていないならばその連れ子を妻にしても罪はない。および汝らが生んだ息子の妻、また同時に二人の姉妹を娶ること(も禁じられる)。過ぎ去った昔のことは問わないが。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(クルアーン第4章23節)
ハディースが伝えるところによると、ムハンマドの妻のひとりでアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバからの伝承として、彼女が自分の妹もムハンマドの妻として迎えて欲しいと願い出たが、妻の姉妹とは結婚出来ないので「私には許されない」と答えて断った。そこで彼女は、アブー・サラマの娘ドッラをムハンマドが妻として欲しているという噂を聞いたので、ドッラとも結婚してはどうかと尋ねたが、ムハンマドはアブー・サラマとは彼の母スワイバの乳でともに育った自分の乳兄弟であり、その娘を娶る事は乳兄弟の娘を娶る事になり、これも自分には許されないと反論して断り、「ともかく、あなた方の娘や姉妹たちを私に勧めてはいけない」と諭したという[12]。同様の例が他にもあり、ムハンマドの叔父ハムザ・ブン・アブド・アル=ムッタリブの娘と結婚しないのかと人から尋ねられた時、ムハンマドは「彼女は私の乳兄弟の娘だから」と言ってこれを否定している。

また、本人の許諾無しに強制的に女性が親族たちよって結婚させられることは無効とされた伝承もある。例えばハンサーウ・ビント・ヒザームという女性は離婚したものの彼女の父親によって無理矢理再婚させられ、これをムハンマドに訴え出た時、ムハンマドはこの結婚を無効としたという[13](ただし、実際に歴史上でこれらの子女が望まない結婚を強制された場合、どれだけ無効と出来たかは裁判記録などの精査を要する)。


ザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関して
ムハンマドの養子であったザイド・イブン・ハーリサの妻ザイナブ・ビント・ジャフシュは大変美しい女性であったとされ、その美貌に魅せられたムハンマドは彼女を自分の妻にしたいと願った。彼女はムハンマドの従姉妹にあたりごく初期に改宗したひとりである。ヒジュラに同行してマディーナへ移住したが、ザイドとザイナブはこの時結婚生活が上手くいっていなかったようで、ザイドの家に訪れた時にムハンマドがザイナブを見初めたことを機会に、ザイドから離婚して彼女をムハンマドに譲ろうとした[14]。しかしムハンマドは周囲をはばかり「アッラーを畏れ、妻をあなたの許に留めなさい」とたしなめて離婚を抑えるようにしたが、ザイドは離婚手続きを済ませてしまった。しかし、すでに息子の妻を父が娶るこを禁止されており信徒たちの間で物議を醸したが、クルアーン第33章37節の啓示による正当性を得られたため、ムハンマドは「養子は本当の親子と同じものではない」[15]、「養子の妻は養子が彼女を離婚した後は自分の妻としても問題はない」[16]とし、627年に彼女を自分の妻とした。ちなみに、このザイナブ・ビント・ジュフシュは結婚の後、預言者ムハンマドの寵愛を巡ってアーイシャと競った事で有名だが、上記の啓示の事を引き合いにして結婚式の当日「あなた方を嫁がせたのはあなた方の親達ですけれど、わたしをめあわせたのは七つの天の彼方にいますアッラーに他なりません」と言ってムハンマドの他の妻達に誇ったと伝えられる[17]。

このことに対して、反イスラーム主義者は、『セックスに対する欲望のあまり養子とはいえ息子の嫁を奪った男』とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている。またコーラン第33章37節の文言もムハンマドが自身の欲望を満たすために作り上げたものとしている。たとえば9世紀にアンダルスで殉教したコルドバのエウロギウスは自著の中で登場人物に『同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと主張した人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。』といわせ、ムハンマドに罵倒とも思えるほどすさまじい批判を加えている[18]。


アーイシャとの婚姻をめぐる議論
ハディースなどの伝承によると、最初の妻ハディージャが没した後、ムハンマドはヒジュラ後のメディナ居住時代に寡婦サウダとアブー・バクルの娘アーイシャと結婚している。ムハンマドの妻たちの多くは結婚経験がある者がほとんどで、ハディースなどの記録による限り結婚時に処女だったのはアーイシャのみであり、特に当時のアラブ社会でも(現在でも中東や東欧など第三世界でもそうだが)他の地域と同じく、良家の子女にとって婚姻以前の「処女性」は非常に重要視されており、アーイシャの場合も処女で婚儀を結んだことがムスリムの女性の模範のひとつとして重要視されている。

ただ、このムハンマドの最愛の妻と呼ばれたアーイシャは、結婚時9歳(満8歳)であり、対してムハンマドは50歳代に達していた。そのため反イスラーム主義者の一部はこれを口実に『ムハンマドは9歳(満8歳)の女の子とセックス(性行為)を行ったのではないか?』(現代でいうところのペドフィリア、児童性愛、チャイルド・マレスター)とムハンマドを攻撃する姿勢を見せている[19]。

これに対してムハンマドの擁護者などは、前近代の人類社会では有力家系の子女が10歳前後で結婚することはありふれており[20]、その場合は結婚してもおおよそ初潮後の適齢になるまでセックスは行わないのが通例であったとして反論している。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと結婚した年齢は15歳であったとも主張している[21]。

ただし、ハディースにはアーイシャ自身からの伝承として、「彼女は6歳の時に預言者(ムハンマド)に嫁ぎ9歳(満8歳)の時に正式に結婚し、9年間を共に暮らした」[22]とあり、「正式な結婚」とは婚儀の後の結婚初夜のセックス・性行為も含まれるとされる。

またイスラームにおいて預言者ムハンマドの言動(ハディース)は一部の例外を除いてムスリムの言動の鑑とされていることから、イスラーム世界における児童性的虐待や幼童婚の慣習の正当化に、ムハンマドとアーイシャの事例が用いられているという批判も存在している。イスラーム法における女子の最低結婚年齢は多くの解釈では9歳であるが、これはアーイシャの結婚時の年齢を基にしたものである。


一夫多妻に関しての議論
ムハンマドらが生きて居た当時、一定以上の財産・地位を持つ自由民男性は通常複数の女性と結婚し、当然ながら子孫を得るため彼女らとセックス・性行為を行った。これはムハンマドも同様であった[23]。

この事自体は(現代ならばともかく)その当時の人類社会における富裕層・支配層では極当たり前の習慣であり[24]、前近代の社会においては一般的で過度に強調するべきことではないともいえる。ただし、当然のことだがこの家族形態(一夫多妻)が前近代の社会で一定程度見られたことを認めることと、この家族形態が現代社会においても正当性を有するとみなしこれを是認するか否かと論じることは、また別の問題である。


天国に対する発言
イブン・カスィールによれば、ムハンマドは『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』と述べていた[25]。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている[26]。

ティルミズィーによるハディース集成書『スナン』によるとムハンマドは「天国の民への最小の報い」として八十人の召使いと七十二人の妻がおり、真珠とアクアマリンとルビーで飾られた天蓋のある、アルジャビアからサナアまでほどの広さを持つ住居をあげたという[27]。

別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ!そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという。[25] ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らす[28]のに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る[29]。

このような事柄はムハンマドのハディースのみならず、クルアーンにも記されている[30]。

このため反イスラーム主義者はムハンマドを『天国を売春宿のように捻じ曲げた男』として批判してきた。エウロギウスは『ムハンマドは彼がキリスト教から取り入れた天国の思想を彼自身の官能的欲求に合わせて作り変えたのだ。』と激しい非難を浴びせた[31]。


セックスに対する認識
ムスリムの真正集によれば、ムハンマドはある日美しい女性を見て彼女とセックスしたいという欲望に駆られ、その足ですぐ家に戻り妻の一人ザイナブとセックスをした。ムハンマドは事が終わった後教友(サハーバ)達の所に赴き、女性は男に性欲を喚起させる悪魔(シャイターン)のような存在であるのだから、女性を見て彼女に欲情した時はすぐに妻のところに赴き性交することで情欲を抑えるように説教したとされる[32]。


女性捕虜の取り扱い
前近代において、イスラーム共同体と非ムスリム世界との戦争によって発生した女性の捕虜に対しては、イスラーム戦士への戦利品として分配され、強姦されることが存在した。このことについて、ブハーリーのハディース集「真正集」には、ムハンマド在世中のヤマン遠征において既にこのような事例が存在しており、ムハンマドもそれを勝利者男性の当然の権利として認めていたこと、そしてその権利をめぐる紛争の調停にも当たっていたことが記されている[33]。


ムハンマドと奴隷
ムハンマドは当時の有力者と同じく奴隷を所有したが、その取り扱いは当時の基準に照らせばかなり寛容なものであったとされる。クルアーンとハディースでは奴隷の所有それ自体は禁じられていないが、なるべく穏やかに扱うべきだと説かれている。ムハンマドとアブー・バクルにより粗暴な主人のもとから解放された黒人奴隷ビラールは、初期のムスリムの一人である。

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2009/06/17
09:32
ムハンマドと猫

ムハンマドは大変な猫好きであったといわれ、猫にまつわるさまざまな逸話がある。 ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていた。ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したという。

ムハンマドが猫好きであったとされることから、イスラーム教徒には猫好きが多いといわれる。とくに額にM字の模様が入った猫は「ムハンマドの猫」と呼ばれる。これは、あるときムハンマドが可愛がっていた猫の額に触れるとムハンマドの名前の頭文字である「M」の模様が浮かび上がったという逸話がもとになっているという。

2009/06/11
16:55
イスラム原理主義

イスラム原理主義(イスラムげんりしゅぎ)は、イスラム的な政治・国家・社会のあり方の実現を目指す政治的活動を指す「イスラム主義 Islamism」の諸運動、あるいはムスリム(イスラム教徒)の宗教的・政治的な急進主義派、過激派を指す、批判的ニュアンスのこもった呼称である。

一般にイスラム原理主義として非イスラム教徒によって理解されている運動は、コーラン(クルアーン)の無謬(むびゅう)を信じて厳密に字義どおり解釈し、預言者ムハンマドの時代のイスラム共同体を復興させようとするものである。

保守派ムスリムは、このような運動をイスラム復興と総称することもある。また日本の親イスラーム的研究者の間では、イスラームの理念を国家・社会に実現しようとする政治的な運動はイスラム主義と定義しており、「イスラム原理主義」の語を分析概念として用いるのは中立派若しくは対象に批判的な研究者の場合が多い。

ただし、近代におけるイスラムのあり方を見直す「イスラム改革主義」や、イスラームを政治的イデオロギーとして扱う政治的イスラムなど、同様の主義を表す社会的および政治的概念は多数提起されており、またこれらの概念同士の意味範囲も定かではない。 なお、前者にはムハンマド・アブドゥフやラシード・リダーなど、西欧近代への適応を説いた歴史的なイスラム思想家も多く含まれる。

一方で、他宗教や無宗教、無神論に対する凄まじい憎悪でも特徴付けられ、『イスラーム以外の宗教や無神論・無宗教は皆間違い、地獄に落ちる』などという主張を行う例もある。[1]

こういった硬直的とも言える思想を唱えた代表的思想家にはサイィド・クトゥブがいる。クトゥブは1960年代の現代エジプト社会を「ジャーヒリーヤ」(イスラム誕生以前の「無知蒙昧な」アラビア半島社会を指す)と形容し、イスラムによる急進的改革を訴えた。

「イスラム原理主義」は、「イスラム改革主義」者よりも、むしろクトゥブの唱えたような思想をまず連想させるものであると言える。しかしクトゥブらの思想は、社会主義・共産主義・自由主義・民族主義・国民主義など西欧近代思想を受容しつつも社会的・政治的不公平や敗北を重ねたイスラム世界(特にアラブ)に対する歴史的反応であったことを無視するべきではない[誰が?]。

日本語で言う「イスラム原理主義」は、アラビア語に関して言えば、単に「イスラム主義」(al-Islamiya)や「サラフ(羊毛)主義」(al-Sarafiya)と表現されることが多い。

一方で「イスラム原理主義」の呼称は、キリスト教における原理主義(fundamentalism)の「イスラム版」という意味合いで欧米の学者が用いたものであることから、日本語にそのまま適用するのは不適切とする説もある。

「イスラム原理主義」という日本語表現は、本来は、イラン革命などのイスラム法(シャリーア)による統治の復活を唱えるイスラム教徒による運動を指してアメリカなどで英語で「Islamic Fundamentalism」と呼んだものの日本語訳である。

Islamic Fundamentalism という語が用いられ、定着する以前においては、Fundamentalism(原理主義)という語はもっぱら、プロテスタントの中でも米国を中心とした一派で聖書に関して逐語霊感説をとり一字一句字義通りに理解し、千年王国の到来を固く信じる「Fundamentalist Christianity(ファンダメンタリスト・キリスト教)」、あるいは「Christian Fundamentalism(キリスト教根本主義)」を指した。ただし、日本のキリスト教界では「根本主義」という訳語が好まれており、「原理主義」というのは外部から用いられる呼称である。

イスラム教における宗教的な理念に基づく社会の実現を目指す運動は、イスラム教の共同体を原初の理想的な姿に回帰させることを志向しており、この点において、「千年王国」を強く意識したメシア信仰に基づく根本主義とは異なる[2]。

しかし、このようなイスラムにおける運動を、英語圏の人が英語によってとらえ、表現する際に、「宗教的な典範を第一原理とし、それをそのまま現実社会と結びつけようとする」という表象上の特色がキリスト教の根本主義に類似していることに着目し、「キリスト教の原理主義(根本主義) (Christian Fundamentalism)」と対比させて身近で直観的に理解されやすい「イスラム教の原理主義 (Islamic Fundamentalism)」の語が使われ始めたものである。

キリスト教文化を共有していないにもかかわらず、「原理主義」の語が取り入れられた日本では、とりわけマスコミで「イスラム原理主義者のテロリズム」という報道が行われたために、この語が「政府の転覆を図る狂信者」「宗教テロ」のイメージと繋がりやすく、極論すれば「イスラム信者=テロリスト」「イスラム教=殺しや暴力を正当化する邪教」という偏見のステレオタイプで見られる傾向まである[要出典]。これは、キリスト教原理主義の起こす北米の社会問題に比して、イスラム原理主義者に帰された国際テロ事件のほうが大きく、頻繁に報道される事による。

実際には、一般に「イスラム原理主義」として評価されることの多いワッハーブ主義を国是とするサウジアラビアが、穏健派の親米アラブ国家の代表格であるように、現実の政治の場では「イスラム原理主義=過激派」と単純にとらえることはできない。

このために、そもそもイスラム主義、イスラム復興運動の全体を上述のような偏見に結びつく原理主義の語で捉えることを批判するイスラム研究者も少なくない。特に、イスラム原理主義と広く呼ばれる範疇に属する運動は、イスラム社会の広い範囲で見られ、ムスリムの間で一定の影響力を持っていることから、「イスラム原理主義のテロ」といったような言葉であらわされる暴力的な活動が、広範なムスリムに指示されているようなイメージが先行する傾向があることが批判される[3]。

一方、社会学的観点からは1970年代頃から世界的に高まっている様々な宗教の宗教復興の動きを広く総称する用語として「原理主義」「ファンダメンタリズム」を定義し、イスラム教の復興を「イスラム圏における原理主義」として世界的潮流の一部と捉える見方が支配的になっており、イスラム研究の立場と異なる。

しかし、上述のような理由により「イスラム原理主義」という言葉の指し示す対象と範囲、その言葉の持つニュアンスについては、日常と学術の現場において「キリスト教原理主義」のそれよりもはるかに大きな乖離が発生しており、どのような立場に立つにせよ、その取り扱いに注意を要する。

1990年代頃から盛んに行われてきたイスラム研究者の発言は近年、日本の言論界やマスメディアにもある程度定着しており、「イスラム原理主義」の「過激派」が起こしたテロは「イスラム信者が起こしたテロ」「イスラム原理主義者が起こしたテロ」ではなく「イスラム過激派が起こしたテロ
」という表現が行われるようになってきた[4]。

2009/06/09
20:00
気になったニュース~2009年4月22日10時12分 読売新聞~

【エルサレム=三井美奈】61年前の建国以来、絶えず戦争に直面してきたイスラエルは、自軍の犠牲者ゼロをめざす「無人兵器」の開発で世界の先端を走る。

 空軍力の主力はすでに無人機が担い、1月まで続いたパレスチナ自治区ガザ紛争では、リモコン兵器が多数投入された。イスラエルが目指す「兵士なき戦場」は、未来の戦場の姿を示している。

 ソフトボール大の球形カメラ、30センチ四方のリモコン車――。イスラエル軍がガザ紛争で使用した新兵器は、一見するとおもちゃのようだ。

 「球形カメラを地下トンネルや建物に投げ込めば、昼夜、周囲の映像や音声が送信され、敵の動きをつかめる。リモコン車は偵察用で、爆薬を積んで突撃することも可能。共に市街戦で威力を発揮する」と製造元「ODFオプトロニクス」の開発担当、ヨシ・ボルフ氏は自信たっぷりに話す。

 ガザ紛争は民家や地下道に潜むゲリラ兵との戦いで、軍はこうした兵器で危険を除去して進軍し、制圧地域を広げた。

 空軍はさらに先を行く。国営企業IAIの倉庫には、軽飛行機大から幅1メートルの組み立て式軽量機まで、大小の無人の偵察・攻撃機がズラリ並ぶ。

 100メートル上空の機体が地上操縦室に送る映像は、人の服装や表情が分かるほど鮮明。物体の動きを自動的に追跡できる。標的に狙いを定め、操縦かんのボタンを押して攻撃する仕組みは、テレビゲームそのものだ。

 イスラエル宇宙庁長官で空軍開発部門の元責任者、イツハク・ベンイスラエル准将は、「2006年夏のレバノン紛争では、軍の無人機の飛行時間が有人機を初めて上回った。ガザでは無人機への依存が一層高まった」と指摘する。

 イスラエルが無人機開発に着手したのは、中東戦争さなかの1970年代にさかのぼる。当時の人口は約300万。総人口2億のアラブ諸国に対抗するため、兵力の損失回避は最大の課題だった。有人機より軽量で安価なうえ、数十時間の連続飛行が可能だ。イスラエル製は米軍や仏軍も採用し、インド、韓国など世界中に販路を広げている。

 紛争が正規軍同士の戦いから、ゲリラとの局地戦に移行したことも需要拡大の背景にあり、アフガニスタンのタリバン攻撃にも使われている。米議会調査局によると、イスラエルの武器輸出額は世界7位の108億ドル(約1兆800億円、00~07年の契約ベース)となった。

 ◆民間人の犠牲変わらず◆

 ただ、リモコン兵器の影響は未知数だ。准将は「無人機は小さな音で標的に接近できる。民間人の誤射も減らせる」と話す。

 だが、世界保健機関(WHO)の報告では、ガザ紛争の死者約1300人のうち、約500人は女性や子供だった。イスラエル軍の主張通り「民間人の死者は全体で約300人」だったとしても、攻撃の精度に疑問は残る。

 ガザで無人機攻撃によって3歳の娘を失った父親は、「連中は安全な場所で菓子をつまみながら、リモコンで爆撃している。腹立たしくてたまらない」と怒りをあらわにする。攻撃される側の屈辱感は大きい。

 それでも、ボルフ氏は「50年後にはリモコン操作すら不要になり、敵を自動で攻撃するロボット戦争の時代が来る」と予測する。戦闘員は最新兵器で身を守り、防御の手段を持たない民間人だけが取り残される……。これが未来の戦場の姿かもしれない。



(2009年4月22日10時12分 読売新聞)

なんともまぁひどいニュースだ。記事自体は4月22日と少し古いが、気になったので載せてみた。自国の兵士のロスを減らせるための工夫というものは、有史以来繰り返し行われてきた人類の知恵だが(フランスの外人部隊しかり、核を代表とする無差別兵器しかり)チップスを銜えながらのリモコン操作はなんとも嫌悪感を生むスタイルだ。戦場というものが、互いの生命を略奪しあう場とはいえ、命をかける兵士の行為に、それなりの矜持と尊厳があったはずだが・・んん・・時代は変わる。無人の戦場へと化そうとしているガザ。新兵器の実験場か。なんとも凄惨な。そしてリアルなニュースだ。胸を張って手のひらにのせているのは開発者かな。この現実を、なによりもまずは受け止めなければいけない。

2009/06/08
16:53
一神教の誕生 ~ユダヤ教からキリスト教へ~

という本を読んでいます。
講談社現代新書
加藤 隆/著

まだ話半分ですが、とても面白いです。
アニミズムが自然の感覚である日本人にもわかりやすいように
なぜ一神教という概念が成立したのか?という過程を、
ユダヤ人(ユダヤ教)と、中東の歴史を絡めながら説明しています。

・キリスト教が、ユダヤ教の分派として派生したこと。
・イエスはユダヤ人で、ユダヤ教徒だったこと。
・パレスチナでのイエスの活動はユダヤ教内部の一つの改革運動だったこと。
・イエスのこの当時の活動が、後にキリスト教と呼ばれるようになったこと。
・ユダヤ教がユダヤ人にとっての民族宗教であったのに対して、イエスの提案が、ユダヤの神は、ユダヤ人以外のすべての民族にも対応する普遍的な宗教であると主張したこと。
・ユダヤ人の民族的特長
・古代ユダヤ教の、宗教としての成熟する推移
・律法主義・神殿主義・エッセネ派・黙示思想の発端
などをわかりやすく説明してくれてます。

これから洗礼者ヨハネとイエスの共通点と問題点
神の支配について そして近代への章が進んでいく中で
イスラム教を除く二つの一神教が(なぜならこのテキストの中ではイスラム教との比較を行われていないから)この世界と、部分的には中東に
どのような影響を与えているのか、
理解の足がかりにしていきたいと思います。

時間がないので今日はここまで。