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2009/07/17 11:16 |
ターリバーン |
ターリバーン (طالبان Tālibān) は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していた。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。
ターリバーンの最高指導者はムハンマド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。
概要
ターリバーンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年~1988年)後の長年の内戦の中から生まれた武装勢力。パシュトゥーン人の割合が多い。パキスタンの強力な支援を受けて急激に勢力を拡大、軍閥グルブッディーン・ヘクマティヤール派を破ってその勢力を吸収しカンダハールを当初の拠点とした。
「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校(マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。
歴史
誕生
ターリバーン側の主張によるとムハンマド・オマルが20人の同志とともに始まったものだとされている。
発展
内戦が続くアフガニスタンの戦いにおいてターリバーンは1994年頃から台頭し始め、当初はアフガニスタン統一を願う純粋な学生の運動として受け止められた。内乱時代のムジャーヒディーン(これには後の北部同盟参加グループも多く含まれる)諸派のモラル無き暴行略奪などに対する反発から当初は市民に歓迎された。
外国との関連
ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(パキスタン軍統合情報局)の支援を受けていた。
パキスタンのアフガニスタン介入は特殊部隊SSGのムジャーヒディーン支援などソ連侵攻時代から継続していたが、内戦で軍閥が群雄割拠する中パキスタンとしてはアフガニスタンに自国の傀儡政権とも言うべきターリバーンを作らせておき、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占したかった。またインドとのカシミール紛争でラシュカレトイバなどイスラム原理主義過激派を投入しており、それがパキスタン国内にいたとなると国際社会から「テロ支援国家」 と非難される恐れがあった。ターリバーンの支配下にイスラム原理主義過激派を匿いたいという目論みもあって、パキスタンはターリバーンを支持した。また、 インドと軍事的に対決するに当たって後背のアフガニスタンに親パキスタン政権が建設される事は、パキスタンにとっては極めて重要な関心事項であった。
1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィ・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。
また、1990年代半ばにはサウジアラビアもパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており[1]、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。
また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカの支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジアの石油・天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインでインド洋に輸送することを計画しているなど、中央アジアの安定化に関心を寄せていた。アメリカの議会関係者や国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。
政権掌握
ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。カーブル制圧後、「アフガニスタン・イスラーム首長国」を建国したが、パキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦以外には承認されなかった。国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下においた。
ターリバーンの国内支配
しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム原理主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは一部報道では実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。
またアル・カーイダと接近してからは、その過激原理主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガーン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。
政策
ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動をおこなった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口としてのもので、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。
また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、外出さえも認められなかった(外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった)。
彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。
政権の孤立
1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
アメリカのクリントン大 統領はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリ バーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打 ち切り、経済面でも大きな打撃となった。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力範囲を拡大し続けた。
1997年5月から、ターリバーンはラシッド・ドスタム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。
1998年8月7日、タンザニアとケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンのハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアル・カーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。
8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。
1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267[2]が採択され、ターリバーン政権に対しビン=ラーディンとアル・カーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。
2000年10月、アル・カーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333[3]が採択された。
2001年2月26日、窮地に追い込まれたターリバーン政権は国際社会の注目を集めるために、バーミヤンの大仏を爆破した。しかし、この行為は非イスラム教諸国のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった[4][5]。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。
2009/07/17 11:08 |
アフガニスタン02 |
経済
きわめて貧しい国の一つで、農業と牧畜への依存度が高い。経済は近年の内戦による灌漑施設の破壊や、ソ連軍の侵攻やタリバンとアメリカ軍を中心とし た多国籍軍との戦闘などの社会的な混乱、旱魃により大打撃を受けている。また同じ理由から国民の多くに食料、衣料、住居、医療施設が不足している。
現在は歳入の大半を国際援助に依存しており、国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活している。旱魃地域ではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んであり、政府が対策に当たっているが功を奏していない[4]。幼児の死亡率は1000人中257人と高い。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢である。国の衛生状態は極めて悪い状態である。
失業率も極めて高い国であり、ネパール・レソトなどと同じように、40%を超える。
2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。
鉱業
アフガニスタンの鉱物資源のうち、もっとも歴史のあるのが紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カブールの東南東190km、ヒンドゥークシュ山脈山中のサーレサン鉱山 (Sare Sang) 北緯33度55分39秒東経67度13分34秒 が主力。産出量は数トン程度。
有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。アイナック銅鉱山 (Aynak Copper) は70年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1・56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。
交通
交通インフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行なわれていなかった為に現在も復興が行なわれている。なお、多くの先進諸国でみられる様な高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行なわれている。 かつては国際列車カイバル鉄道(カブール~パキスタン国ペシャワール間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。
なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行なわれている他、カブール国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、その他の乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。
国民
民族構成(アフガニスタン) | ||||
---|---|---|---|---|
パシュトゥーン人 | 45% | |||
タジク人 | 32% | |||
ハザラ人 | 12% | |||
ウズベク人 | 9% | |||
その他 | 2% | |||
主要民族 (2003年推計)
言語
大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)がわかる。
- テュルク諸語 11%
- など
宗教
イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対し国際的非難を浴び、この法律は撤廃され、現在は布教活動も許されるようになった。2006年8月、タリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。 その他、ヒンドゥー教やユダヤ教などもいるらしい。
バーミヤーンについて
2005年12月15日、バーミヤーンで仏教徒が確認されたことが判明した。
文化
アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、アメリカのアフガニスタン侵攻によって内戦が終結した後に以下のふたつが世界文化遺産に登録された。
- ジャームのミナレットと考古遺跡群(2002年)
- バーミヤーン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(2003年)
バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、2001年にターリバーンによって破壊された。
- 王家の再興を願う声が少なからず存在する。
アフガニスタンに関する映画
- モフセン・マフマルバフ 『サイクリスト』『カンダハール』『アフガン・アルファベット』
- サミラ・マフマルバフ 『午後の五時』
- ハナ・マフマルバフ 『ハナのアフガンノート』『子供の情景』
- セディク・バルマク 『アフガン零年』
- マーク・フォースター 『君のためなら千回でも』
- ティモー・ベクマムベトフ 『エスケープ・フロム・アフガン』
- マイク・ニコルズ 『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』
脚注
- ^ a b c d CIA World Factbook 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ “Afghan on trial for Christianity”. BBC(. 2006-03-20) 2007-12-08 閲覧。.
- ^ Sentenced to death: Afghan who dared to read about women's rights
- ^ 世界最悪のアヘン生産国となっており、世界の87%を同国で生産している。
関連項目
アフガニスタン紛争関連
- 復興関連
- アフガニスタン日本人拉致事件
- ボン合意
- 国連アフガニスタン支援ミッション
- 国際治安支援部隊
- アフガニスタン復興支援国際会議(02年に東京で開催)
- アフガニスタンに関する国際会議(04年3月31日にベルリンで開催)
- その他
参考文献
- 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』岩波書店(新書・新赤版828)2003年(ISBN 4-00-430828-3)
- 前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002年。(ISBN 4-309-22392-3)
- マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史』(柳沢圭子ほか訳)明石書店、2002年。(ISBN 4-750-31610-5)
外部リンク
- 政府
- アフガニスタン大統領府 (英語)
- 在日アフガニスタン大使館 (英語)(日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - アフガニスタン (日本語)
- 観光
- その他
アフガニスタン・イスラム共和国- جمهوری اسلامی افغانستان
Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān -
(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : ソルーデ・メッリー
-
公用語 パシュトー語、ダリー語 首都 カーブル 最大の都市 カーブル 建国
独立
- 宣言1747年
イギリスの保護国より
1919年8月19日通貨 アフガニ(AFA) 時間帯 UTC +4:30(DST: なし) ccTLD AF 国際電話番号 93
2009/07/17 11:06 |
アフガニスタン |
アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタン(アフガン)は、西アジアの内陸に位置する多民族国家。首都はカブール。
パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。西にイラン、南および東にパキスタン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。
国名
自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人の国(土地)」を意味する。 正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。
公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦。
国名の変遷
- 1834年 - 1926年 アフガニスタン首長国
- 1926年 - 1973年 アフガニスタン王国
- 1973年 - 1978年 アフガニスタン共和国
- 1978年 - 1987年 アフガニスタン民主共和国
- 1987年 - 1992年 アフガニスタン共和国
- 1992年 - 1996年 アフガニスタン・イスラム国
ターリバーン政権期
ボン合意以降
歴史
詳細はアフガニスタンの歴史を参照
- 紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、イランからアフガニスタンの北部周辺と考えられる地域でゾロアスター教が生まれた。
- 紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の征服は、この地にヘレニズム文化をもたらし、古くからの集落であった地にアーリヤ、アラコシア、バクトリアと呼ばれる都市を築いたが、それらは現在もへラート、カンダハール、パルフとして残っている。
- 紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人が建てたバクトリア王国に支配され、次いでクシャーナ朝が この地に栄えた。仏教とギリシア文化による影響が、イスラム教が伝わるまで反映した。その後、アフガニスタンには様々王朝が勃興し、インド北部へ軍事的進 出を繰り返し、インド北部へイスラム教が広がる。一方、アフガニスタン北部及び北西部では、中央アジアのブハラを中心とする経済政治文化の影響を色濃く受 けていった。
- 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
- 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
- 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
- 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
- 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
- 1973年、ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
- 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
- 1979年、ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。
詳細は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」を参照
詳細は「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」を参照
- 1992年、ムジャーヒディーンが攻勢、ナジーブッラー政権崩壊(その後ほぼ無政府状態)。
- 1993年、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
- 1994年、内戦が全土に広がる。この年ターリバーンが急成長。
- 1996年、ターリバーンが全土をほぼ掌握し実効支配。旧ムジャーヒディーン勢力が反ターリバーンで一致し、北部同盟となる。またこの年、米国の要請によりスーダン政府はウサマ・ビン=ラーディンをアフガニスタンへ国外追放とし、ウサマ・ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダが アフガニスタン国内に入り、ターリバーン幹部と急接近する。翌年、タジキスタン内戦終結を受け、タジキスタン国外に追放されたジュマ・ナマンガニが率いる ウズベキスタンの反政府組織ウズベキスタン・イスラム運動(Islamic Movement of Uzbekistan)がアフガニスタンに移動を開始し、アルカイーダと近づく。
- 1998年、ターリバーンがアフガン全土をほぼ掌握。アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言するが、承認国は3カ国にとどまる。
- 1999年、ターリバーンに対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。
- 2000年、ターリバーンに対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。
- 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。
- 9月6日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官がアルカイーダのメンバーにより暗殺。
- 9月11日、アル・カーイダがアメリカ同時多発テロを起こしたとして10月、アメリカと有志連合諸国は自衛権の発動として攻撃を開始する。また、北部同盟も攻撃を開始する。
- 11月、カブール陥落。年末にターリバーン政権崩壊。
- 12月、ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カブールの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。
- 2002年2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカブール空港で暴徒に撲殺される。
- 2002年、ハーミド・カルザイを暫定大統領に選出。6月、アフガニスタン・イスラム移行国発足。
- 2004年1月、新憲法制定。
- 2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、正式政権アフガニスタン・イスラム国発足。選挙を前にターリバーンが再結成し、南部で武装蜂起。
- 2005年、総選挙・州議会選挙実施。
- 2006年、ISAFの指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移譲される。5月、タリバンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。
政治
アフガニスタンは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は2004年1月16日に公布されたもの。国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。イスラーム教徒以外大統領にはなれない。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。
2009年5月21日カルザイ大統領の任期が切れる。同8月20日に大統領選挙が行われる。この間の大統領職務は現大統領が継続すべきと最高裁判所が判決を出しているが、反カルザイ大統領派は任期満了後はカルザイを暫定大統領とするよう要求している。
行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。首相職は設置されていない。立法府は二院制の国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メ シュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5 年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。
国民議会とは別に、国家主権、安全保障、憲法改正、反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成。閣僚と最高裁判所長官及び最高裁判所裁判官は、ロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。
司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在。三審制。
憲法により複数政党制が認められているが、政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(タジク人中心)、アブドゥラシード・ドスタム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザラ人主体のイスラム統一党がある。また、パシュトゥーン人による旧政権勢力ターリバーンやヘクマティヤール派等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。
- アフガニスタン人民民主党 - 社会主義政権時代の執権党
- 北部同盟 - 反ターリバーン同盟
人権問題
純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける民主主義の構築は一定程度進んだとされる。し かし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、非ムスリムへの差別規定があるなどイスラム国家としての色彩が強い。
そのため言論の自由、思想・信条の自由などがしばしば、支配者や聖職者の定義するところの「イスラーム」的な価値観に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって死刑判決が出たこともある。
欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては国際社会からの批判が巻き起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。[2]また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。[3] これに対しても国際社会は抗議しているが、カルザイ政権も今回は保守派ムスリムの圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。
地理
山の多い地勢であるが、北部や南西部には平野がある。最も標高の高い地点は、海抜7,485m のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている。気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。主要都市は、首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥズ、南部のカンダハールなどである。
2009/07/17 10:44 |
【イラン騒乱】写真・映像は撮るな! 治安当局が記者7人を拘束 |
国際ジャーナリスト組織、国境なき記者団(RSF、本部パリ)は16日、6月の大統領選の不正疑惑に対する抗議行動があったイランで最近、計7人の写真・映像記者が拘束されたと発表した。
RSFによると、イラン当局は抗議行動などの画像や映像が国外に持ち出されることを恐れ、カメラマンらを集中的に取り締まっているという。拘束されたうちの1人は、フランスの写真通信社や民放局に画像・映像を提供する写真記者だった。
RSFは7月12日時点で、計41人のジャーナリストがイランで拘束されていると発表している。(共同)
2009/07/17 10:43 |
【イラン騒乱】「法律を守らない者は独裁者だ」大統領が改革派非難 |