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中東観察

仕事の合間にちょくちょくこちらへ逃避予定。 もっぱら趣味。(09`06/02) 最近ではもっぱらデータバンク化。 ご自由にご利用下さい。(09`07/01) ※リンクはご自由にどうぞ。 最近相互リンクのご依頼が相次いでいますが、まずはリンクを張られてからお問い合わせ下さい。こちらも迅速に対処いたします。(09`07/01)
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2009/06/19
17:59
イラン

イラン・イスラム共和国(ペルシア語: ایران Īrān‎)、通称イランは西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。首都はテヘラン。

北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。またペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。

1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として、中国では「波斯」として知られた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」、通称イランであり、漢字表記は伊蘭・義蘭を用いる。
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2009/06/18
11:58
へブロン 中国との経済摩擦



現在ヘブロンでは、中国からの安い製品が流入し、地元の雇用や地場産業・地元企業に深刻な打撃を与えている。AP通信の報道によると、ここ10年で中国製品が大量に流入するようになり、約3分の2の繊維工場が閉鎖され、8年で6000人の靴工場で働く労働者が職を失ったとされる。ヘブロン商工会議所によると失業率はヨルダン川西岸で最高の30・5%に上るという。

中国製品はまず、ヘブロンから西岸各地に輸入されるため同市が多くの損害を受けたとされる。中国はイスラエルとの国交樹立を境にパレスチナにも経済進出し、数年間ヘブロンにビザ事務所を開設。パレスチナ企業が中国に進出できるよう資金を共同出資するなど優遇措置を取り、約300のヘブロンの企業が中国に出先機関を持つに至った。ヘブロン商工会議所によると当地商人の90%が中国を訪問したとされる。中国との貿易が活発になる中、カフィーヤや玩具・帽子に至るまで安い中国商品が大量に流入し、地場産業でもあるカフィーヤの職人には打撃となり、また粗悪品が多いために中国製品がすぐに捨てられ、市のゴミ処理問題に発展し、ゴミの量が2倍に増えたとされる。

現在、ヘブロンの企業は生産から輸入へと転じているとされ、生産するにしても、イスラエル向けの商品を細々と生産している程度だという。

2009/06/18
11:56
ヘブロンとは

ヘブロン(Hebron, chebhron, アラビア語: لخليل‎, al-Ḫalīl)は、パレスチナヨルダン川西岸地区に位置する都市である。

エルサレムの南に位置するユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖地の一つ。

ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の祖であるアブラハム(イブラーヒーム)の墓がある。旧約聖書によれば、この地はアブラハムがエジプトから逃れ、銀400シェケルで初めて手に入れた土地であるとされている。この墓所のあるマクペラの洞穴は、ユダヤ教だけでなくイスラーム教でも聖所とされており、建物の内部で二分されている。

1929年に暴徒化したアラブ人によるユダヤ人67名の虐殺、1994年のユダヤ教過激派の青年によるイブラーヒーミー・モスクで起きた銃乱射事件で29人のパレスチナ人が死亡するなど、宗教・民族対立における惨劇の舞台でもある。

ヘブロンはイスラエル建国以降ヨルダン領であったが、1967年の第三次中東戦争にてイスラエル領に併合された。 併合後は、1929年にアラブ人によって追放されたユダヤ人の元住民が戻り始め、郊外にキリヤト・アルバ(Kiryat Arba)入植地を建設。以来ユダヤ人の入植が続く。しかし、1980年に6人の入植者がパレスチナ人に銃撃されたのを契機に、時のイスラエル政府はイブラーヒームの聖廟近くに住むパレスチナ人を追放して、代わりにユダヤ人入植者を住まわすことで報復した。

1997年のヘブロン合意により80パーセントをパレスチナ自治政府の治安部隊が、20パーセントの入植地をイスラエル軍管理下に置くことで合意した。 

近年、ユダヤ教極右の入植者とパレスチナ・アラブ人住民との間で、深刻な住民対立が起きている。1994年2月25日、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人礼拝者へのテロ事件があり、29人が殺された(マクペラの洞窟虐殺事件)。実行犯はその場で殺害されたが、イスラエル兵による発砲もあり(イスラエル側は否定)、総犠牲者は50人とも60人とも言われている。

その後、国連安全保障理事会の勧告を受け、ノルウェーなどがヘブロン暫定国際監視団(Temporary International Presence in Hebron、TIPH 外務省はヘブロン暫定国際プレゼンスと訳している)を設立。国際社会の介入を嫌うイスラエルも受け入れた。5月8日にヘブロン入りした。ヘブロンではユダヤ人入植者による、パレスチナ人を追い出そうとする暴力や嫌がらせが後を絶たないため、国際監視団はこれを監視し、抑制するのが任務である。国際監視団は非武装で、強制力はないが、外部の目を光らせることで、抑止効果を期待している。ノルウェーの他、スウェーデン、デンマーク、スイス、イタリア、トルコより監視員を派遣している。2002年3月27日には何者かに監視員2名が殺され、国連のコフィー・アナン事務総長は非難声明を出した(イスラエル軍はパレスチナ過激派の犯行と見ているが、パレスチナ側はこれを否定。ロイター通信が伝える病院関係者の話によれば、監視員を殺害した銃弾は、イスラエル軍のものだったという)。2006年には、ムハンマド風刺漫画掲載問題の余波で事務所にパレスチナ人らの投石を受け、一時避難していた。その後、再びヘブロンに戻り、監視活動を続けている。

2009/06/18
09:58
中東経済 参考文献

ムハンマド・バーキルッ=サドル 黒田寿郎/岩井聡訳「無利子銀行論」 未知谷 1994年
ムハンマド・バーキルッ=サドル 黒田寿郎訳「イスラーム経済論」未知谷 1993年
北村歳治/吉田悦章『現代のイスラム金融』(日経BP社 2008年)
吉田悦章『イスラム金融はなぜ強い』(光文社新書 2008年)
前田匡史『〈詳解〉イスラム金融 世界を動かすダイナミズム』(亜紀書房 2008年)
イスラム金融検討会編著『イスラム金融 仕組みと動向』(日本経済新聞出版社 2008年)
石田進 「イスラーム無利子金融の理論と実際」『人々のイスラーム その学際的研究』 片倉もとこ編、日本放送出版協会、1987年
石田進「イスラーム無利子金融の動向」『現状イスラム経済‐中東ビジネスのすすめ‐』 武藤幸治・石田進・田中民之、日本貿易振興会、1988年
板垣雄三 他 『イスラーム世界がよくわかるQ&A100 人々の暮らし・経済・社会』 亜紀書房、1998年
片倉もとこ 『「移動文化」考 イスラームの世界をたずねて』 日本経済新聞社、1995年
河邑厚徳・グループ現代 『エンデの遺言「根元からお金を問うこと」』 日本放送出版協会、2000年
木村喜博 『中東イスラム諸国におけるイスラムと現代的思潮』 日本放送出版協会、1996年
小杉泰(監)NHK「イスラム」プロジェクトチーム(著) 『イスラム潮流』日本放送出版協会、2000年
小杉泰 『イスラームとは何か』 講談社、1994年
小林克己 『イスラムの謎と矛盾』 産能大学出版部、1991年
小馬徹 『贈り物と交換の文化人類学 人間はどこから来てどこへ行くのか』 御茶の水書房 2000年
私市政年 『イスラム聖者‐奇跡・予言・癒しの世界‐』 1996年
ナイーマ・モハメド 『アラブ・イスラム世界 文化と政治』アラブ日本文化交流センター、2000年
宮田律 『中東政治構造の分析‐民族・イスラーム政治を考える』 学文社、1996年
『日経ビジネス』2000年10月9日(通巻1061)号
RODANSON, Michel Islam and Capitalism 1983 (『イスラームと資本主義』 山内永 訳、岩波書店、1978)
MULLICK, Hussein 『パキスタンにおけるイスラム化経済の出現‐その起源、最近の諸手段、成功の見込み、回教世界に及ぼす影響‐』 日本経済調査協議会(訳、刊)1982年
AHMAD, Khurshid(編)Studies in Islamic Economies The Islamic Foundation (イギリス)

2009/06/18
09:57
中東・東南アジア以外への伝播

前節まで主として扱って来たのは中東諸国、および最大のムスリム人口を持つ東南アジアのイスラム無利子金融であった。ここでは諸地域への伝播について扱う。

地域別に見ると、1980年代には既にギニア、リベリア、ニジェール、南アフリカにまでイスラム金融機関が進出を遂げており、1996年にはデンマーク、ジブチでも登場している。ソヴィエト連邦の支配から脱した中央アジア諸国は依然として空白地帯であり、その地域における市場経済の定着と資本の集積はすぐにはできないため、無利子銀行が開設されるのは先のことだろうが、当のイスラム国からは中東・東南アジアのイスラム金融機関に関心と期待が寄せられているという。

また、無利子銀行のムダーラバやムシャーラカといった貸付方式は、経済的インフラの僅少な地域で長期的な視野で経済を立ち上げることに適しているといった指摘もある。実際、スーダンでは8行ものイスラム銀行が営業し、経済開発に大きく関わっている。これについては上述したような、シリコンバレーの「アイディアと意欲はあるが資本のない起業家」の支援システムとの類似が指摘できよう。仮に事業が失敗しても、借りた者が多重債務を背負い込まないこのシステムは、資本を持たない者が「新しい何事か」を起こすのに適している。発展途上国が多額の債務と利払いに苦しむ現状は、融資が無利子金融の形態であったならば起こらなかったとも考えられる。


将来の展望 [編集]

ムスリムによる将来展望 [編集]
イスラム圏の大規模な企業組織では、内部に、企業の行動をシャリーアと照らして検討するための諮問委員会を持っている例がある。そういった場での議論では、現時点では無理としても、長い長い時間をかければ、無利子経済が有利子を駆逐していくだろうという楽観的な考えがあり、これは、ムスリムの学者の多くによって共有されている模様である。

たとえばムスリムである研究者 Hussein Mullick (パキスタン)は、無利子銀行が資本主義の搾取システムを止め、貯蓄家を資本家に変えてゆき、経済を活性化する点などから「無利子銀行制度が西洋の銀行制度に勝ることはあまりに明らかである」と述べている。


非ムスリムによる将来展望 [編集]
対して、イスラム社会の外部から、研究対象として観察する側の意見はそれとは異なる。宗教的情熱のみでは無利子システムの維持は困難であるため、無利子金融機関は、有利子金融の利子と同程度か、それに遜色ない程度の業績をあげる(上回る場合は問題ない)ことが可能ならば、資本主義の有利子企業に伍して資本主義世界で営業を続けて行くことも可能であり、アラブ・イスラム諸国の資金力に支えられて、西欧型金融が多数を占める中で、小さく頑健な岩礁のように存続していくだろう、という視点で語られる。その根拠としては、パキスタンにおいてすら1950年代には最初の無利子銀行の試みが挫折し、ミトル・ガムス貯蓄銀行においてようやく成功、本当の萌芽は国庫からの資金を入れたナセル社会銀行、そして発展はオイルマネーによってであることが挙げられている。

アラブ・イスラム諸国の資金力とは、つまるところ石油である。石油で潤った富豪たちはイスラム銀行に多額の無配当預金をしている(彼らがこういった、自らに利益のない行動に出るのは、ザカートに代表されるイスラム社会の互助的環境のゆえである)が、これらがなければ、中東の無利子銀行の成長も、遅れたかもしれない。そしてオイルマネーとは、大量の石油を消費する西欧消費文明に由来している。一面では、無利子銀行はオイルマネーによって支えられ、オイルマネーはヨーロッパ・アメリカ社会(日本を含む)によって支えられているという指摘もできるだろう。

無利子銀行の恩恵に浴していないムスリムたちは地球上に大勢いるし、西洋にも有利子経済に疑問符を投げかける運動がある。無利子金融は今後、現状よりも拡大してゆく公算が非常に大きいが、このままの成長の先にヨーロッパ型の経済体制を単純に打破する未来像があるとは、考えにくい。

ムスリム人口が拡大しつつある中、その需要によってイスラムの無利子銀行は拡大するだろうが、優勢な勢力となり得るとは考え難い。共通点を見た西洋の脱資本主義的運動が力を持つとしても、有利子の需要がある限り、そう簡単に現状世界経済を変えることはできないと言えよう。

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